これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
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私はどれ程救い難い世界にいたのか。
「人間を取り巻く見えない世界」の項で戦いとその結果を書いたのを見て、「人間の知っているのはその程度か」と厳しい言葉があった。2000年の初め私は同じ県内の別の市に転居した。自縛霊という言い方があるのは、霊達にも登録された住居があるから。人間が転居しても彼らの登録変更が済むまでまだ前住居に残っていた霊がいた。出たり入ったりしているのでその数はよく判らなかったが、何度かの戦いで味方のすべてがついえた訳ではなく、役目柄戦闘にはあまり参加しない、かなりの数の童子霊が前住居に居残っており、それらが捕えられて売られたという。邪悪な通報者がいたのだ。捕まった時童子が何万ドルかを払うからと釈放条件を提示しても受け入れられなかったらしい。多分彼らの生存の希望はない。彼らが余計なことを私に漏らして隠し事が知られないよう秘密保持のためであるが、同時に霊の人身売買は仲介者にも不正なあぶく銭をもたらす。私の組織は更なるダメージを負った。
妻が二度妊娠し流産したのは「三つ子の魂も結構うまい」などと言っていたから、胎児との合体のために下りて来た霊が食われた可能性がある。私が死後の報復を考えず勇を鼓して書き起こしている訳がわかるだろう。これは亡くなった霊たちへのレクエムである。
ずっと以前、家に入って来た大人の霊の一人が「子供がいる」と言い、他方が「歩留まりが悪い」という会話を交わしていたのが聞こえ、何の意味か分らなかった。あとでその子供に「見逃してくれたのだ」と言われてやっと彼は助かったのだと分った。
私は自分を平凡な人間だと思い何の気構えもなかった。よい身体をもらったから精力はあり余っていた。後になって甘かったと悔いても遅い。
私が胎児に宿るために下りて来る時、同時に別途下りてくる仲間があることを意識していた。彼らは私と一緒に暮らす者と離れて宗教に働かされる者に分れ、前者のうち良い種は私のための弁護の証人になりまた家を守り悪い種は悲しい犠牲者になり、法華の家だったから後者は餓鬼道と混在してつらい仕事をやらされたのだろう。
悪い仲間に入れられて「父母に合わせる顔がないことをした」と嘆いていた子供の声を思い出すと鳥肌が立つ。「言わなかったけど命令に背くと殺されるのだよ」と言いつつ去って行った少年は無事なのだろうか。イザヤ書に「(新しい神は)すべての軛を絶つ」とあるのは、当時のユダヤ教にも似たようなシステムがあったがやがて改善される時が来るという期待の表れと解される。
餓鬼というと男児ばかりのように取られるかと思うが、女児でも似たような境遇にいる者がいる。いやがらせのようなことをしてへそ曲がりな奴らだと思ったが、ほとんどは命じられてやっているらしい。人の心理を読んでこんな恥ずかしい考え方をする、などと悪し様に報告する。悪霊に命じられた通りの働きをして守護霊たちを悩ませ、ネガティブな行動なら何でも細大漏らさず見張りして針小棒大に報告し見逃さない。しかし彼女たちも仕事で成果を上げなければ未来はない。「ハルマゲドンまでがんばろう」などと言っていたからもう少しの辛抱か。男女とも本当に悪い根性の者は例外的で、大半はやむなくやっている根は善良な魂ばかりだろうと思う。
カトリックの使徒信条では磔刑後イエスが三日間冥府(よみ)に下って復活したと述べ、JBラッセルは何故イエスが冥府に行ったかは歴史的に議論されたテーマだと書いている。「洗礼を受けた者が今後は永遠の生を得るように(イエスは)地獄へ降って死の力をうち破った」という解釈は、洗礼を受けた者はイエスによって以後地獄に落されても悪の罠から救われるようになったという意味だろうが、イエスは自分だけでなく仲間を連れ戻す必要があったのだと思う。この解釈の通り実際に地獄が弱体化したとは思えない。
今になって、人間が犯した不品行は当人の堕落として記録されるだけでなく、罰としてその度毎に家の子が犠牲になっていたという驚くべき事実を発見した。私も精力を持て余し、刺激に反応して興奮を自制出来なかったり、軽率に悪所のネオンに誘われたりしたのだった。一人また一人と連れて行かれた子供の数が、おスペで何人、ヌードショーで何人、自家発電で何人、まんなか節(学生時代に覚えた艶歌)を歌って何人、おさわりバーで何人・・・そして彼らに「こうなるのも人間のせいだ、人間を憎め」と教える。これが自分の選択ではなく父から受け継いだ仏教のやり方だった。
家の中にいる男女の児童霊は決してすべて心がけが良く役に立つ者ばかりではなかった。勝負強くもないのにケアレスに賭けごとに手を出して大敗したり、勝手に散財して迷惑を掛けても反省する気がない。何故こんな態度も頭も悪い雑魚連中が居るのかと私はいらいらした。彼・彼女らはふるい落されて連れてこられた悲しい捨て駒の予備軍だったのだということに思い当たる。何故連れて来られたかも知っていたのだ・・・自分達はいずれ人間の落度の代償として連れ去られる運命にあるという事を。結果的にはこの子らだけではなくほとんどすべてが貪欲な者達の犠牲になった。
以下の私事は所詮監視者にバレている事だから隠しだてしても仕方ないと思って書く。
女性との性交渉は勿論記録に残る。関係を持った女性達のうち、ある者の霊(または分身)は審判の場で私へのアンチとして証言し、ある霊は幸い私を肯定し擁護するだろう。旅先で知り合ったその女性とは彼女が東京に出て来てしばらく同棲した。彼女には顔に傷跡があり、固く将来を誓った男性がいたが自動車事故で死亡し、同乗していた彼女は怪我しただけで一人残された。以後酒浸りの生活だったという。「裸で雪の上を転がったらきれいな身体になるやろか」と呟く。多分乳房に彼氏の名前か文言を彫ってあったのだろう、絶対に胸を開いて見せなかった。私との結婚は「あなたのお母さんが許す筈がない」と頭からかたくなに否定し、もし子供が出来たらそうも言っていられないだろう、などと話した。私との短い暮らしで「心が洗われた」と言った。彼女は今私に恨みはないそうである。
30代の初め、婚約までして式間近に別れた女性は最後に私への憎しみのメッセージを残した。別れた理由は彼女の母(実際はおばで実母は死亡)が私を受け入れなかったせいだが、これは私側だけの言い分かもしれない。この失敗のダメージは大きくすっかり女性不信になった。彼女が私を支持する訳はないだろう。
一年ほど前、家の中で「どこの馬の骨かわからない」女性の霊を退去させるかどうか議論していた。まわりが言うには彼女はピンサロの女の分身で、私の愚かな行跡の証人としてアンチ派に留め置かれていたらしい。会社の帰りに途中下車してネオン輝くバーに入ると付いたのが舞子だった。やや遅い時間で彼女も酔っていたのだろう。暗い奥の席で私の人となりに気を許したのか、自分一人で用意して膝の上にあがり私を驚かせた。早くすませるように私を促し、終る時噛み殺したような悲しい声をあげた。その後店を変わるたびに電話して来て新しい店にも行き、日曜日に昼の食事を共にしたこともあった。東北の故郷に幼い子供を残し彼女の母親がその面倒を見ていた。もとは中学の先生だったが結婚し妊娠して退職し、その後離婚した。「だって彼は一日に25回も鏡を見る人だった」と愛想も何もない顔で言った。こんな仕事に付く前東京で普通のOLをしていたが、男の社員が特別な色目で見て、露骨なモーションを仕掛けてくる者もおりOLの仕事を止めたのだという。
今でも彼女自身健康で子供が無事成長し幸せになっただろうかと案じる。セックスはあの一回きりだった。その彼女の分身は「ありのままを言うだけ」と言っていたが、多分出て行ったと思う。
仏教で起きた悪い果報がキリスト教では起きないと単純に言えるかどうかは疑問である。「燃え上がる緑の木」で書いたように、不品行者に加えられる科の重大さを知って多くのクリスチャンが痛悔するのは仏教と同じようなことがあるからだろう。イエスも「私は知らないと言う」場合があることを警告している。
私が70歳になった時、淡い期待のようなものが流れ、すぐに失望に変わった。人間が70になれば霊たちは役目を解かれるという規定がワシントン条約(冥界での宗教に関する世界的な取り決めか)にあるらしいが、もとの私の宗派は「そういうことは知らない」と誰も戻らなかったと聞いた。
仏教は元来六道輪廻を説き畜生道に落ちるケースを想定しており、中には畜生以下の非道い転生もあるらしい。唯物論者が支配し神の救いや牧師職の意義を否定して結果的に悪魔に大きなメリットを与えた20世紀のモスクワでも、そこまではしなかったというような差配が。
冒頭で取り上げた外部勢力と仲間との戦いで、悪しき勢力はヤクザ達と呼ばれていた。それが何を指すのか、具体的には私にもよく分らない。近い過去に日本は近隣外国を侵略支配したことがあったが、勢力が逆転した今は昔の怨恨で彼らが無法な暴力をふるって復讐するような話も耳にする。
また日本人は正体も分らないのに畏れの観念から古代のカミを祀り上げ、新陳代謝させない。それらは或いは貪婪な先住民族かも知れない。その力が御利益をもたらし心強い味方のように思って祭っても、下手をすると借りたツケは命で返さねばならないかも知れない。真に民族を守護し人間の側に立つ正当な神のみを祭るべきである。かつて実在した天皇を神格化して祭ることも、また軍人を歴史上の貢献者として祀ることも相応の理由で間違いではないとしても、その他は神というよりは鬼を崇拝している危険性があり、江戸時代に会沢正志斎が鬼神論で警告したように、とんだヤクザを崇めている惧れがある。誤ったカミを崇拝することは大和の冥界への正しい力の導入と刷新を妨げる。各民族は善悪二神のセットを持ち、どちらが崇拝すべき神か忌むべき神かを取り違えてはならないとオリゲネスも忠告している。
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告白とは何とつらいことか。自分では分っていることだから、このような文章を綴るのが他人の目にさらすのを目的意識した作業であることは間違いない。
他の宗教ではあまり見かけないことだが、仏教が一家の先祖累代の墓を建てさせるのは将来にわたって子孫を拘束し信者を確保する巧妙な策である。面識のない他人に、顔も本名も明かさないで読んでもらうだけなら構わないだろうが、私としては何らの疑いも挟まず家宗を墨守する親戚・友人・知人に何より事の本質を伝えたい。勿論我が伴侶にも。しかしイエーツの詩のような書き方をしても、何を伝えたいのか誰も分ってはくれないだろうし、イエスは人々に譬えで話したという聖書にも、我々には理解不能の個所がいっぱいある。出来るだけ具体的に例を示さなければ何の役に立つだろう。たとえ自虐ネタであっても逡巡してはいられない。今まではなるべく固有名詞を出さないようにしてきたが、少し考えを変えようと思う。
ある夢で、パソコンのスクリーンに私が過去に交わった女性の一覧が表示されているのを見た。
「お前は三つのことを書いただけで他にはなかったようなふりをした」と意地悪く突っ込まれるに違いないので、あれだけではなかったことも告白しよう。言い訳するなら、自分で誘った行為は皆無であり、誘いに乗った有償・無償の行為であったとはいえるだろう。
もう70を過ぎたのだ。腹を括るしかない。
最近はほとんど見なくなったが、一人暮らしを始める前、毎晩嫌になるほど見たのは、足の踏み場もないような、汚れてあふれたトイレの夢だった。家屋も余りにもひどいぼろ家で建具も傷んでいるものが多かった。社会のインフラが出来ていない世界。そして男性の大人のいる気配がない。大人がいないからインフラが出来ないのかも知れない。また東京神田界隈を歩いている暗示で見た夢は、なるほど立派な作りの寺があるが、全体的にうす暗く、通りに人影がなくがらんとしていて、樹木の下に立ってこちらを見ている二人の女性が生気なく笑っていた。部分的かも知れないがこれらが関東の仏教の煉獄の有様だと考えたのは私の錯覚だろうか。
気が付くと私はガラス張りの巨大なオフィスビルの中の一角で、広い机を前にして座っていた。きちんとネクタイとスーツで決めた明らかに外国人風の男性が同じ机の左側にやや離れて座って新聞を読んでいた。別の新聞が私の右手近くに何紙か置いてあった。彼は手元の新聞を読み終えて私の顔を見、置いてあった新聞に視線を移してまた私を見た。無言の指示だった。私は彼の視線が示した新聞を取って手渡したが、カッと怒りにかられた。そして「俺はお前に顎で使われるいわれはないぞ」と言った。自分でも不思議な、ひび割れた荒々しい声だった。彼は私をちらっと見たが全く動揺する気配もなく、再び新聞に視線を戻して読み続けた。
映画コンスタンチンに出て来た男のような風貌の彼は悪魔の一人である。日本の地獄は真新しい建築物で超近代化されているそうである。
この夢で、私は誰かに連れて来られたのだろうと思ったが、心理学者によれば脳にはそれが自分自身のことであると思わせる分野があり、夢を見ていた時私はそこを刺激されていただけなのかも知れない。
N市へ来てすぐの夜、見掛けたことのない、人相から明らかに悪魔の仲間と思われる男が私を品定めに来、「なんにも(最近は)悪い事をしていない男だ」と面白くもおかしくもない風な調子で言った。
改宗してから四年位経った頃、家の中で女二人と男が話している気配がした。男が何か言ったことに対し、女が「貴方は悪魔か?」と驚いて聞き返した。そうは見えなかったのに違いない。男は黙っているがそれは肯定の沈黙である。様子を覗っていた私が「神の子か」と呟くと「昔はそう言われた」と返事があった。
人間も昔よりははるかに進歩し、それにつれて冥界も変わっただろうと思う。それなのに悪魔は相も変わらない食習慣で悪を行い続け、そのシンボルとして一方の極に位置している。「遺伝子コードが解読される時代に・・・」と彼も自嘲した。仏教に使役されている気の毒な少年少女に対し「みんないい子だ」と同情を示した。しかし「甲子園でキャッチボールしながら待ってるからな」というセリフを残して、間もなくいなくなった。私にはその意味が分らず、将来自分は甲子園の近辺で死ぬのだろうかと考えた。後で思い付いたのは、マンガの野球一直線に「俺が死んだら三途の河原で鬼を集めて野球するダンチョネ」という替え歌があり、それをシャレて三途の河原でまた逢おうと別れの挨拶を言ったのだと理解した。私の周囲もゆっくりとメンバーが交代しているようである。
前に、私の不品行の代償として家の子が次々と連れて行かれたことを書いた。聖書の「あなたたちはもう裁かれている」はこのことも含むのかも知れない。ところが、ここN市K地区でも昔そのような達し(人間が間違いを犯す度に代償を求める)があったが、実施はされなかったという。この、地方色のある宗教のやり方の違いが実に物事を複雑にしている。キリスト教が尊重されているか、逆にないがしろにされているかも、地域によって色々と状況が異なるようである。クリスチャンが死ぬとその地方のキリスト教グル―プが寺社庁(寺社奉行)から独立していれば独自の審判を、統率されていれば仏教中心の他の宗教に対するのと何ら変わらない審判を受ける仕組みになっていて、独自の立場を勝ち取るにはそれだけの力と他の宗教の了承がなければならなかった。ただしマルチリ(殉教)の犠牲者だけは確実に救済される(オリゲネスも殉教を奨励している)ことは全国共通の例外だそうである。山上の垂訓に「心貧しい者」と「義のために迫害される人々」が天の国を自分のものとすると述べている。
キリスト教がユダヤ教から派生して長い苦難の時期を経てローマの国教になりラテンの国々で優勢になったとしても、同じ状況が同時に日本および世界各国で起きた訳ではないし、苦しい布教の役目を働くべき日本人のイエスと使徒がいた訳ではない。20世紀にロシアや中国で共産主義革命が成功したからといって、日本の共産主義者も国の主導権を握った訳ではないのと同じである。
日本には長い禁教の時代があってキリスト教の浸透度は浅いし、大戦直前も宗教は国策に組み込まれた。歴史上のイエスの勝利を司教・司祭が足元を忘れて過大に褒めそやし、信者が自分のことではない成功体験に安易に依存することを、霊的なバチカンも警告しているそうである。むしろ逆に、世界的なキリスト教の拡大は非キリスト教国とされるこの国が魔の手によってターゲットにされる一因となった可能性がある。悪魔の文化史(文庫クセジュ)によれば、神父アコスタ(16Cスペインのイエズス会宣教師)も「悪魔はキリスト教の到来とともにインドに逃避しそこでさまざまな虚偽をまき散らした」と言った。当面は地域または国単位で良きみ柱のみを祀り、民衆はことの重要さに気付き死後に自分が導かれる信教を改めて、悪魔と配下のデーモンにはお引き取り願うしかない。
世界的な悪の本部はなる程コチートを連想する寒地にありウインタースポーツの盛んな都市である。最近作られた映画を見てここにはこんな強烈な悪のポテンシャルが潜在していたのかと心胆を冷やされた。
日本国内の地域性による違いを具体的に書くことは大変難しい。ある地方に本社のある古来のカミはまだ病人の肉体に息があるうちに魂を取って食ってしまうという。そのカミの名前はとても公言出来ない。あちら側では仏教の実体は知れ渡っているが多くは見て見ぬふりをしている状況で、N市の近隣S市のむかしの藩主は「仏国土を火の海にしたい」という言葉で仏教への反感を表現し、ほかにもそれに同調する藩主がいるらしいことを聞いて驚く。見えない世界に対する打開をこの世で性急に実現しようとしたのがオームではないだろうか。ただしオームの教祖はシヴァ神の生まれ変わりを自認しているそうで仏教を敵視していた訳ではあるまい。1980年代まだオームが公の活動を認められていた頃、教祖のお面をかぶった複数の霊が出て来る、ぐっしょりと寝汗をかくような悪夢を見てうなされたことがある。当時A新聞はスプーン曲げをインチキであるとするキャンペーンを張っており、連続写真でそのトリックを分析する記事を載せる程熱を入れていた。そのA新聞にオームの記事が出ているのを読むと、どうせ海のものとも山のものともつかない新興宗教に対する反オカルトの論調かと思いきや、意外に好評価していた。興味をひかれて本屋にオームの機関紙を見に行くと、教主の顔が余りに予想と違っていて、全く幻滅して帰った。 夢でさいなまれたのはその直後であった。
JBラッセルの「ルシファー 中世の悪魔」という本の裏表紙に2匹の大きな魚のようなものが左右から大口をあけ、その口で囲まれた円形にたくさんの人間がいて、外枠に一人の天使が立っている、書いた時代が相当古いと思われる絵がある。多くはこれを見て何かの単なる風刺画としか思わないだろうが、これは人間が遁れようもなく悪魔の餌食になることを図示している。一体何に基づいて画家がこのような画を描いたのか知らないが、私はこの画の持つリアリティーに身震いする。
どのようなシステムがあって我々はこのほとんど片道切符のような旅に出たのだろうか。難解なトマス福音書29章で、“イエスは言った、「肉が霊の故に生じたのなら、それは奇跡である(肉が霊から生じることはありえない)、しかし、霊が身体の故に生じたなら、それは奇跡の奇跡である(霊が身体から霊が生じることは更にありえない)。しかし私は、いかにしてこの大いなる富(即ち霊)がこの貧困の中(身体)に住まったかを不思議に思う」”とあるように、彼もその理由を知らないのだろうか。ここでイエスは、「人間は罪によって下界に落とされたとする旧約の通説を鵜呑みにしてはいない」と言った。イエス自身は自分が来た目的は人間救済のルートを開くためであることを勿論承知していた。
結局の所我々は多少の選択の余地はあるにせよ、この世に来たのは「ノー」とは言えない強制力の下にあるからだろう。「悪の文化史」の作者ジョルジュ・ミノアは「善と悪を単に倫理的なカテゴリーととらえ、悪魔の役割は説明原理として優れた存在であるとし、宗教が善を勧めてもこの世は悪に満ちているなら神の力は弱く得られるものは乏しいが、サタン(悪)への信仰は我々を束縛から解放し手に入るものが多く、その方が豊かな恵みがあると考えるのは尤もである」とする立場と見て凡そ間違いないだろうか。しかしそれでは
“Lead us not into temptations, but deliver us from the evil ones.” が結果的に
”Led into temptations and offered to the evil ones.”になってしまう。何のために悪が人を欺き甘い罠へとそそのかすかを考慮していない。悪は誘惑し誘惑された者を罰する。魚釣りと同じである。サタンの味方をしたからといってサタンが褒めて助けてくれたりはしない。ここはサタンのホームグラウンドであって神の力は制限されている。人間の中に難点を見出しそれに目くじらを立てて言いがかりを付け、欲望の弱点を突いて減点し合格させないのは神ではなく悪魔である。あらゆる生き物の中で、人間ほどよい飼料で育ったものはいない。魔族はライオンや狼と同じ肉食である。私はデーモンの少年が「友達がみんな餅菓子を喜んで食べていたので一口食べたところ、身体が拒否反応してひどい苦しみに襲われた」と悲痛な告白をするのを聞いた。悪魔が人間を餌食にするのは単なる説明原理ではない。ジョルジュ・ミノア説は要注意である。(*註1参照)
この本にルターは極度に悪魔に敏感でその作用を怖れ、また強く反撥したことが書かれている。彼はユダヤ人やトルコ人を悪魔と呼んでして敵視した。私自身はユダヤ教徒にもイスラム教徒にもなったことがないので何とも言えないが、個人的な体験を言うと、トルコとイスラエルを旅行した時食あたりでひどい体調不良に陥って苦い経験をした。しかしルターに作用したものがユダヤ人またはトルコ人だったとは考えられない。
かつてイエスと使徒たちが敵対する相手を悪魔と呼んだ時、それは永遠の命への道を阻む打倒すべき存在に対してであって、その用語法には本来の素朴な真実が宿っていた。しかし同根である筈の旧教と新教とがお互いに相手に悪魔というレッテルを貼って対立し糾弾しあってから、キリスト教は新たな局面を迎えた。一方が「伝統と統一を無視する分裂主義的異端者」と非難し、他方が「これまでのキリスト教を振り返ってその当否を正しく評価することなく、人類に明日にはない」と反撥する。どちらがイエスの「わたしは道であり真理であり命である」を証すのか、人間は何をもって判断すべきなのだろう。
近代にレオ十三世の「フマーヌム・ゲスス」なる回勅がバプチスト派、仏教徒、フリーメーソンそして救世軍を難詰して「悪魔に付き従うサタン王国の集団」と呼んだ時、仏教徒を含めるのは我が意を得たりであるにせよ、バプチストも他と同列に扱うのは旧教の立場からであるに過ぎない。果たしてレオ十三世は死後両手を広げて神に迎えられただろうか。(*註2参照)
(*註1)私はこの時点ではサタンを古い概念で考えていた。「負の遺産」及び「対立物の統合」でサタンは善の強い味方であると考えを変えた。結果的にミノア説は間違っていない。
(*註2)サタンとは何者であるかを考えると、レオ十三世には混乱がある。仏教徒・フリーメーソンは「誤って悪魔を救い主として信仰する集団」であろう。しかしサタンは悪魔ではない。むしろサタンは「神のしるしのある者」をこれらの宗教から救い出す役をしている。バプチストをレギオンの輩と及ぶ呼ぶ声を聴いたことがあるが誰の声だったか。救世軍についてはよく判らない。