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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

インカンベント

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 ちょっと面白い話なので紹介する。惑星ニビルの海には鯨はいなかった。ニビル星人は地球で初めてこの巨大な生物を見て畏敬の念に撃たれ、これを捕って食わないことにした。だから反捕鯨の思想はニビル星人の発想である。一方鯨としては自分の身体を大きく育て上げて人間に食物を供するのが願いなのだそうである。八ヶ岳に棲んでいたイギリス人の C.W.ニコルさんは今や鯨は増え過ぎているからどんどん捕って食うべきだと言っていたが、彼の方が理に叶っている考え方だった。今は日本人は鯨を捕って食うということで世界から白い目で見られるようになったから捕鯨もやめてしまった。現在80才以上の私と同じ世代の人は戦後まもなく鯨の肉を食べた記憶があるだろう。当時鯨は貴重な蛋白源だった。母が作ったジャガ芋と鯨肉を醤油味で煮た料理は私も好きだった。

 Incumbent (現職の)という単語は学校で習った記憶はないが、米系石油会社にいた私は仕事で覚えた。年一回職務規定 (Job Description) と呼ばれる文書を提出する機会があり、内容は概ね部長が作成した文書なのだが、部下は自分の職務明細を箇条書きにした文書を読んだ後、サインして返すのである。文書の末尾にアンダーラインを引いた空白の行があり、その下に Incumbent と書いてあって、各自そこにサインする。内容に異議があればサインする前に部長と交渉するのだろうが私は一度も異議を申し立てたことはなかった。わざわざ文書化するのは多民族国家アメリカならではの企業カルチャーであろう。今年の春頃兵庫県庁で公用パソコンに実録ポルノ小説を書き貯めていた職員が話題になったが、私のいた会社であれば明らかな職務規定違反であり馘になっても仕方ない所であって、プライバシーを主張してフタをすれば済む問題ではなかった。このインカンベントという言葉は霊界でも頻繁に使われているそうで、現に地上にいる人間のことを指す。これに対比する言葉がアバター(分身)である。例えばある猿が生まれ変わってインカンベントになるのであれば、同時に別の猿が霊界で分身に指定され、その猿も人間に変身してそっくりさんになる。ドロンドロンと人間に化けるのは狸だけではなかった。人間(人の子)がインカンベントに生まれる場合は身内の誰かがアバターに指名される。アバターの役割はインカンベントのやるのと同じことをやって見せることである。だから分身を取り替えるチェンジングなぞルール違反であり、仏教はルール破りの宗教である。上の例で猿の場合も人の子の場合も頭数が減ったり増えたりする訳ではない。ところが人間上がりが裁きでイカ人間にされればイカが増えたことになり、流れに逆らえず海の底に沈めば沈んだ分だけ数が減っている。霊界を仕切っている旧体制が「我々のやり方には何も実害がない」と言っているのは虚言である。

 私は全然気付かなかったのだが、今年の9月から11月にかけての長期間、日本の支配権をめぐる新旧勢力対立の戦いがあり、結果的に新体制側に凱歌が上がった。多分対決はこれで9回目である。あちこち結構広い範囲で戦いがあったようである。外国からもたくさんギャラリーが来ていて、中には一緒に参戦した者もいた。「金持ち喧嘩せず」と揶揄されていたロックフェラー組も来ていたと聞いて驚いた。しかし今回特筆すべきは岡崎組の獅子奮迅の活躍で、特に目覚ましい働きをしたらしい。彼らには関ヶ原で歴史的な東西対決の大決戦を制した記憶がある。戦いが終わってから人間組は整列して狸軍団に頭を下げたそうである。それだけでなく、現在インカンベントのいる動物たちのアバターも種類を問わず人間組に混じって戦っていた。結局の所これまでの人間対動物の対立という図式で見る考え方は間違っていることが分かった。彼らは愛国者である。私の身内の1人が「彼らが動物だとは全然気が付かなかった」と言っていた。問題の本質は人間にとっても彼らにとっても同じである。エスニックな神も人間組にいたことは間違いないと思う。この結果どういう変化が起きるかは今の所何とも言えないが彼らの態度が変わったのは事実であろう。

 「干支」の項で狸族のことを書いたのは別段彼らの力を借りたいと意図した訳ではなかった。実は狸族には独特のコミュニケーション能力がある。「ブンブンブクブク、ブクブクブンブン」というもので傍受しても彼ら以外誰も理解出来ないだろう。私が狸族のことを書いているのを聞きつけて狸族の一員が訪ねて来た。そして家にいる私の仲間の許可を得て「干支」の項のドラフトを読み「これでいいから是非そのままブログに載せてくれ」と頼まれた経緯があった。今回も戦いの後でちょっとの間来たが妙に会社の内情に詳しい。戦いの場に経理部の「和田さん(のアバター)も来ていたが彼女は大きな豚だった」と言うのを聞いて、そういうことかと思った。日本で豚族の占める割合はかなり大きく芸能界にも豚姫がいる。彼が会社の内情に詳しいのはインカンベントが私と同じ会社にいて結構親しい間柄だったからであった。たまに会社の帰りに麻雀をやることもあった。帰り際に「我々は独立する」と言っていたが、八幡宮ではなく幅広く愛国者が集まる宗派を興すつもりかも知れない。日本で彼らにはそうする歴史的背景と実力が充分に備わっている。芸能界には豚姫だけでなくモート美人、狸美人もいるがそれが誰かは厳重に秘密厳守で他言無用と思っている。彼女たちは決して他人に言えない秘密を抱えながら懸命に頑張っているのである。豚も人間に食われることに異存はなく肉をタブー視することはない。牛や馬もそうだと思う。私は時々最近のイタリア映画を Youtube で見るが、共通して感じるのは虚無感というか無力感というか、明日に希望を見出せるような内容の映画はほとんどない。原因はやはりカトリックの本山であるバチカンの存在が影響していると思う。余計なお世話かも知れないが、もし Cristian Solidarity of Italy のような宗教的組織を興せばうまくいく可能性があるかも知れない。ローマの起源はロムレスとレムスの神話で語られる。犬族は「カトリックは嫌いだ」と言っているから、彼らはきっと人間の味方になるだろう。

 このブログはマリア信仰をカトリックの罠としてずっと警戒して来た。ところが最近のマリアは人間であることに目覚めて変身し「これまでは嘘だらけの世界にいた」とキリスト教の神髄を理解して輝くような美女に生まれ変わったそうである。私の立場に矛盾が生じてどう釈明すれば良いのか分からないが、事実であるとすれば歓迎するほかはない。この件は確認でき次第また報告するだろう。マリアは過去のキャリアから見て未来に対しても何か予測できないポテンシャルを持つ女性なのかも知れない。彼女も今度の戦いにも参加していたらしい(ということはマリアのインカンベントが日本にいるということになる。そうだとすれば広島出身の彼女だろうか)。霊界では女は男に優るとも劣らない力持ちであることは私も経験した。諫早でも女の扱いに日頃の不満が高まって女たちのストライキが起きた。「ストなんか止めろ」と言って殴りかかった男を女が殴り返した所、男はひっくり返ったそうである。女に対し従順であることを求め低い地位にとどめておこうとするイスラム教が敵の罠であることをニビル星との関連で後述する。

 「チュカパブラ」の項を書いたことで国内外に驚きと困惑の波紋が広がったことをひしひしと感じた。中には「日本人がこんな事を書くのは見当違いだろう」という声もあるようだがそうでもないのである。ニビル人の生き残りが全体でどれ位地球に来ているのか判らないが100万人は軽く超えるのではないか。最初の居住地からゲルマン民族の大移動やローマ帝国との攻防や新大陸への移民などによる人口移動があってシャッフルされたが、現状ではアメリカが一番多く全体の3~4割位はいるようである。お蔭で最初にアメリカに渡って来た清教徒は絶滅して今日宗教的な痕跡は残っていない。日本にも仏教との関連で結構の数がいて、これまで書いたように犠牲者は多いが、これは加害者が多いことも意味する。ただし日本ではニビル星やチュカパブラという名前も概念も世間一般の間にはそれ程広がらなかった。しかし決して無関係ではなく、例を挙げれば親鸞はチュカパブラであろう。ひたすら「ナムアミダブツ」と唱えれば救われると説く丸投げの思想の推進者である。作家の中では「幼児は揺籃のうちに殺(あや)めた方がよい」と自作に書いた芥川賞受賞者や、ある炭鉱を舞台に閉塞した状況でカップルが赤子殺しする作品を書いた流行作家も同類であろう。こういうテーマを深堀りする心情はやはり尋常ではない。注目すべきは、プロテスタントの教会でレベルの高い学校を出て一流企業に就職したにも拘わらず途中から牧師になったケースに一度ならず出会ったことがあるが、彼らは企みを抱えて転職したのだろうか。サラリーマンだった私の感覚で言えば無事に定年まで勤めた方がずっと良いと思うような会社である。外国人では知性派の文明批評家として名声が高かったギヨーム・ポステルも彼らの仲間だったらしい。カトリックとイスラム教に執着していた。よく考えてみると、会社関係にも心当たりのある者が何人かいた。もう退職後25年以上時間が経ったのであるが、今になって彼らとの会話が記憶に蘇り、色々と思い当たるふしがある。

 白い紙の中央に丸い円を書く。これを太陽とする。円を横長の楕円形で取り囲む。ニビル星の軌道である。上下に太陽に最も近づく地点がありこの時ニビル星は真夏である。左右に太陽から最も遠い地点がありこの時ニビル星は真冬である。左側上に真夏から左の真冬までの期間がある。これが秋である。左側下に左側の真冬から下の真夏までの期間がある。これが春である。下の真夏から右側の真冬までの期間がある。これが秋である。右側の真冬から上の真夏までの期間がある。これが春である。このようにニビル星は太陽を一周する間に(春+夏+秋+冬)x2の8つの季節がある。一周するのに3600年かかるのだから一つの季節は地球の時間の長さで450年である。こう考えると楕円形の周期もうまく出来ている。ニビル星から地球に来るのに最も近いのは夏季450年 x2の期間であろう。Wikipedia に「ニビル星は火星と木星の間に存在していたと考えられる惑星ティアマトと衝突し地球・小惑星帯を形成した」というシッチン説が紹介されているが、この説はホーガンの「星を継ぐもの」と矛盾する。また1つの恒星を周回する2つの惑星の軌道が交錯することはまず考えられない。だから地球は以前から今ある通り金星と火星の間にあったのではないか。このことはノアの大洪水との関連で後述する。

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 ゼカリア・シッチン著「神々との遭遇(上)」を読んだが気が重かった。アヌンナキと呼ばれるニビル星から地球への飛来人についての様々な資料の引用と解説である。シッチンは具体的に書くのを避けているが、私はこの本全体に重苦しい通奏低音として流れているカニバリズムを感じない訳には行かなかった(しかし結局このことについて一切の記録がないしシッチンも黙秘している)。それに彼が旧約聖書の創世記を無批判に受け入れているのも吟味が足りないとしか思えない。遺伝学で言われるミトコンドリア・イブは16万年前に人類の女がアフリカに実際に生きていた痕跡であり、Y染色体アダムも同様である。従ってアヌンナキたちが地球に来て一生を終えたのも凡そ16万年前からであろう。彼らにとって地球はまだ暑すぎたと思うが地球に来た目的は何だったのだろう。これらの男女によって地球で最初に生まれたのがアダムとイブであろう。聖書ではアダムを創造した神をエロイムと呼びイブもアダムも一心同体であるが、エロイムの名はヤハゥエである。しかしシッチンの本ではエロイムに当たる人物はエンキであり、そのライバルはエンリルである。旧約聖書でアダムはイブの勧める知恵の木の実を食べて楽園を追放されたが、これは蛇がイブに知恵の木の実を食べるようそそのかしたからだった。エンキが蛇のような姿で描かれたシュメールの絵柄が図22(p-135)であるが、彼が何故蛇の姿で画かれるのかは説明がない。エンキは創世記で「悪魔の誘惑」を演じるサタンであろう。楽園はエンリル(実は悪魔)のテリトリーだった(創世記はエンリルを楽園の主としてあたかも善神のように見立てており、ライバルはサタンであろう)。エデンの園のエピソードを言い換えると、アダムとイブの父親あるエンキがイブにニビル星で女子供がエンリルたちによってどんな目にあったかを教えた後、イブはその話をアダムに伝え、アダムも納得して二人は楽園の主の眼を盗んで脱出した、というのがこの話の流れであろう。このように創世記では善と悪が交錯している。悪役にされたサタンをエロイムには出来ないので、ヤハゥエという別人をエロイムに仕立て上げている所に創世記の作者苦心のナラティブがある。

 アダムから数えて7代目のエノクの時代に、若いエンノイア(これを神々と見るのはUFOによるニビルからの飛来人を神々扱いしているからであろう)と人間の娘たちとの乱交が問題になった。このことはエノク書に書かれている(p-109~110)。単に娘たちを凌辱したという風紀の乱れだけでなく、性行為があれば子供が生まれるのであるから、この時先述した日本人作家の作品に画かれたような子殺しがなされたのであろう。今では本の中の話だが遠い昔実際に地球上であったことである。ここで注目すべきはターゲットになった犠牲者の年齢の変化である。ニビル星におけるカニバリズムは最初大人の女たちが対象であったが、最も古いミトコンドリアを残した女たちはカニバリズムの犠牲になるのを避けてニビルからまだ暑く未開の地球に逃避していたと考えるのが妥当である。だから彼女らは「イブの娘たち」ではなくイブの母であろう。本来ならアヌンナキたちが地球で土を耕し、野や山の獣を追い、川や海で漁をした話が出て来てもいい筈だが、そういう話は不思議な程書かれていないで、ほとんどが気の休まらない対立のストーリーである。楽園神話の頃は性徴が現れるまで待って思春期まで成長した女(イブ)が狙われた。しかしエノクの時代にはもはや幼児が男女を問わずその対象になる程切迫(というか堕落が進行)していた。カニバリズムはジャンキーになると言われる。地球を舞台にした楽園神話もエノク書の記述も、それぞれが当時ニビル星で行われた慣行と同時進行で対応していたのではないだろうか。幼児犠牲を宗教的儀式化したのが聖餐式で、この式次第はあたかも子がすすんで自分の身体と血を父に捧げるかのようである。キリスト教は狡猾に悪用されたのである。イスラム教にある根強い女性差別にもニビル星で女がどのように扱われる存在であったかが影を落としている。本来ナマズ(イスラム教徒)たちのルーツはニビル星とは何の関係ない筈である。

 エノクよりさらに3代後に生まれたのがノアだった。エンキは密かにノアに箱船を作りそれに地上のあらゆる生命を積み込んでおくよう指示した。粘土板古文書に残された、いよいよ大津波が地球全体を襲って来た瞬間の描写が箱船出発の時の緊張をリアルに伝えている。
『シュルッパクの北、約100マイルにある、アヌンナキの宇宙船港があったシッパールから宇宙船が飛び立つのがその(箱船出発の)合図だった。なぜかといえば、シッパールに集まってそこから地球を回る軌道に乗ろうというのが、アヌンナキたちの計画だったからだ。アトラハシス/ウトナビシュティム(ノア)は、宇宙船が発進する際に「一斉に放射する」大地を轟かすばかりの閃光と火炎に注意するように言われていた。宇宙空港の航空司令官であるシャマシュが「大洪水が来る時間に合わせて(宇宙船を)発進させるから」とエンキは(ノアに)教えてくれた。そしてウトナビシュティムは合図が現れると箱船に乗り込み、ハッチを当て木で密閉してから乗員もろとも船全体の運命を、航海士ブスル・アムルに託した。この航海士が船を向かわせるように指示を受けていた目的地はニシル山、別名双頭の山アララト山だった』(p-141)
アヌンナキたちは津波が到着する時間を予め知っていて、目前に到着するや否や飛び立つ計画だった。ノアは教えられた通り宇宙船が発進する轟音が聞こえたらすぐに船を密閉し、津波到着と同時にアララト山に方向を定めた。アララト山以外は水没するからである。ノアは津波がどの方向から来るかも知っていた。ノアの洪水はエノクの時代以来の乱れ切った人間の堕落に対する神の怒りだというが、人間であるアヌンナキたちがどうして津波の来る時間と方向をそんなに詳しく予見出来たのだろうか。

 ここでホーガンの「星を継ぐもの」との関連を考えるのは単なる空想ではないと思う。この本の舞台であるミネルバという星はシッチンの言うティアマトである。両方共かつて火星と木星の間にあったが今はない。ニビル星末期にはニビル人は最初ミネルバにも来て住んでいた。ミネルバの方がニビル星より太陽に近いから寒冷化したニビルより住みやすく、まだ暑すぎる地球よりも条件が良かったのだろう。ミネルバでセリアンとランビアンが対立したのは既に母星ニビルで発生していた深刻な対立が尾を引いたのであり、それは地球にエンキ組とエンリル組の対立が持ち越されたのと同じであろう。ミネルバは衛星を持っていた。「星を継ぐもの」にある通り両軍の破壊的な戦闘の結果ミネルバは粉砕されて小惑星群になり、衛星はミネルバの引力から逃れて太陽に引き寄せられたが、途中で地球の引力に捕らえられた。この時のショックがノアの洪水を引き起こした力である。だからニビル人は月がミネルバから地球に近づく速度と到着時間、およびその時地球が軌道上のどの位置にあるかも計算に入れて、大洪水がいつどういう風に起きるかを予め知っていたのであろう。ニビル星人にはこれらの大事件を正確に予測する恐るべき科学技術があったと考えられる。しかし両軍は激しい戦いの最中であって冷静に複雑な計算は出来ないから、第三の中立的な公的機関があって、双方に予報をアナウンスしていたのかも知れない。ノアの大洪水は南極の水がユーラシア大陸に押し寄せたのであるが、我々の世界地図で見れば南極を中心として下から上へと海水がせり上がって来たのである。地球の平均気温は今よりずっと高く南極は氷が解けて南極大陸は露出していたから(p-145)海の吃水線は現在よりはるかに高かった。

 私は宗教に潜む邪悪な何かを追ってチュカパブラまで来た。この言葉が何を意味するのか知らないが、地球人の中にニビル星人が多数混じっているから彼らは知っているだろう。それがニビル星人の特定のグループまたはその特徴を表すものであると予想するが当たっているだろうか。彼らは表の世界では法律に従い、従わなければ法的な罰を受けるのであるが、霊界ではいまだに昔の悪習を続けているというのがここまでの私の推論である。その慣行がユダヤ教でも仏教でも一部を除くキリスト教でもイスラム教でも行われているのが現状であろう。その包囲網の広さには愕然とするが、ガバメントは「諦めたら終わりだ」と警告している。