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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

干支

 共産主義者は世界の共産主義化を歴史の必然という。宇宙に数多ある生物の住む惑星の中には、人類ではなく動物がヘゲモニーを握った星もあるのかも知れないと漠然と考えていたが、モート星がまさにその例だったのではないか。モートが人間を屈服させたのである。マリアやイザヤがプラスマテだというのはそういうことなのである。彼ら人間は遅れて来たが、動物グループによって既に出来上がっていたアンシャン・レジームを崩せないで逆に組み込まれた。その理由は、モート星の人間はこの世のことしか考えないで霊界の知識にうとかった。霊界にいる人間は弱肉強食の弱者だったのだが、そういう事に思い及ばなかったのだ。そして気が付いたときは既に遅く原型が人間である者は数が余りにも減り過ぎてしまっていた。彼らは人間を絶やす方法を知っていた。これは今の地球の状況に似ている。あたかもモート星で人間が減った時と同じような状況にあって、ヨーロッパや中国だけでなく日本でも人間がますます少数派になり極めて弱い立場になっている。だから人間は覚醒して滅亡を食い止めなければならない。地球で人間は今が最後の踏ん張り所なのである。

 トッドは自由・平等・博愛の精神をフランスの誇らしいスローガンと見て称揚しているが、これは成り上がった動物たちの合言葉であると気付いてはいないようである。ナポレオンのモスクワ遠征も私はマインドコントロールされたせいではないかと考えている。CSJ という宗教を興すに当たって「動物たちは人間になって晴々とした気分になる。彼らは人間界で高い地位には着けなくても、スポーツマンや国防の任務やガテン系の仕事に着いたり、コックやドライバーになって立派に生きている。だから彼らもボランティアとしてCSJに招かれるべきだ」と忠告してくれる者がいた。確かにそういう面はあって、人間の数の多寡によって彼らを受け入れるか警戒するかの地域差が生まれることは止むを得ないと思うが、表立ってボランティアも募集するとは今まで言って来なかった。問題が複雑化して混乱する懸念があった。もしある地域がボランティアを受け入れて、彼らが人間の魂の救済に一緒に協力してくれた実績があれば、人間も彼らの仲間を救済するのに手を貸すべきであろう。しかし犬は人間の友というが飼い主以外には敵であろうし、Youtuberにも犬族がいて彼らは独特の意見を言うそうである。犬とモートは仲が悪い。猿は比較的人間に友好的なのではないか。このように動物といっても様々あり、また同じ種の中でも個性があって、我々はまだ十分に彼らを分かっていない。モートにどんな特殊能力があり、タコがどの位知能が高いかまだ解明されていない。厄介なのは魚類や甲殻類などの水生動物も人間になる。もしすべての人間を評価する基準は元型と個人の行いだけであるとすればCSJ という宗教にはテキスト(つまりこのブログの出版物)さえあれば教会も祭司も信者登録リストも集会も維持費の管理も一切必要ないという極論も考えられる。多分ガバメントはこの考えなのではないか。トッドは日曜礼拝に行かないようなクリスチャンを世俗主義者と呼んでいるがそれとは少し違うかも知れない。ただし葬儀は自宅で密葬ということになるだろう。
 
 宗教は教会に行こうがモスクに行こうが寺院に行こうが所詮信者が自分が選んだ宗教をどう考えるか、またそれにどう対応すべきかは人それぞれである。釈迦は自分の宗教を興すに当たって僧職の生活が成り立つかどうかを心配したと言うが、人間がどう生きるべきかを自分自身で学べという事になればそんなことに配慮する必要もなくなる。然しそのことと釈迦がどういう目的で仏教を興そうとしたかはまた別である。基本的に仏教は丸投げの思想でありイスラム教もこの考えに近い。丸投げの宗教の場合、信者をいかに説得するか、これを信じればどんなメリットがあるかというナラティブが必要である。それが真実であるかごまかしであるかは結果が出てみなければ分からない。しかし我々にとって最も望ましいのはトリックに引っかからないで無事仲間のいる所へ帰ることだけである。

 狸という動物を私はこれまで余り重要だと考えていなかった。徳川家康は狸親父と呼ばれる。家康の名言と言われる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は彼の忍耐強さを表している。これが狸族の一般的な特徴ではないだろうか。江戸時代は狸族の時代であったし、トップシークレットと言われているが今も狸族は人間界にかなりのパーセンテージで混在しているようである。タレントの中にも結構いるのではないだろうか。そういう目で見るとモートやデプラや天狗族とは一味違う者たちがいて、彼らにある種の日本人らしさを感じる。彼らはどこかの星から来たというよりは地球上の動物の系統樹の中で四足獣の一種として生まれ知能も発達したのではないだろうか。だからその時の環境を与えられたものとしてあるがままに受け入れ順応したのである。従って彼らは仏教を肯定している。一時霊界でナショナルフラッグという言葉が喧伝されたがその中心にいるのは彼らではないか。このブログは仏教に対し批判的なことを書いているが、仲間の中で誰かがそれに同調する気になると厄落しが現れて「いいからいいから」と気持ちを鎮めさせるのだそうである。私のやっていることを眺めて「女に手紙を書いて、あいつの女好きには困ったもんだ」と噂しているらしい。私は男にも女にも手紙を書いたし、全部ではないが住所氏名を書いたものもあるが一度も返事を貰っていない。まして手紙の相手と会ったことはない。とは言え CSJ を知ってもらうためにこれからは心当たりを頼りに最低限限られた人と会わなければならないと思っている。

 江戸時代の特徴は士農工商の身分制であり、武士道であろう。中でもハラキリは世界に類がない、自分で自分を所罰するという独特の刑である。三島由紀夫は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠れの思想に共鳴していた。彼には武士の世界への強烈なノスタルジーがあったのではないだろうか。それを映写化し、また公開でも市ヶ谷の自衛隊駐屯署で実演した。ここまでやるからには彼は狸族だったのだろう。三島由紀夫が名前を借りたという三島神社(もしくは大山祇神社)は愛媛(対・金毘羅宮)及び静岡(対・熱田神宮)に分社が集中しており、これも熾烈な戦いの神社である。大三島にある大山祇神社には数々の武具が陳列されているそうである。この神社のCSJに対する態度はよく分からないが外来組が来る前からある古い神社と同じではないだろうか。ただし分社の配置からして創始は外来組が来た後で江戸時代より前だと思う。侵入組としても反対勢力に手を焼いたのではないか。三島由紀夫が名前を借りたからと言って三島神社が狸族の神社とは限らないだろう。漫画で狸が頭に木の葉を載せて印を結ぶとドロンドロンと人間に化けるが、化けるということは騙すと同じ意味で要注意であろう。狸族が江戸時代の功績によって人間になったという説は本当か嘘か判らない。しかし彼らの業績が日本人精神の形成に少なからず寄与しているのは事実であろう。トッドがヨーロッパで一時アイデンティティー運動があったことに触れているが、タヌキ属(Nyctereutes 何だこの言葉は!)を母体とする国もあるのではないか。南米の某国はそれを公言しているそうである。

 このように、これからは神社の重要性が再確認されるだろう。大阪の住吉神社は海に近く熱田神宮の分社と思った方が良い。神功皇后は騙されたのである。大分の耶馬渓にある青の同門は曹洞宗の僧禅海が一人で鑿と槌で岩山をくり抜いて33年かけて堀った隧道であるが、彼の努力を人々は高く評価して来た。しかしあれは獣道だという声がある。禅海は狸族で、だからこそ辛抱強く耐えて困難を乗り越えることが出来たのではないだろうか。大分にある宇佐神宮には八幡様が祀られている。八幡様は八幡大菩薩とも言われ仏教色が濃いからカビナントと繋がっていると思うが、それだけでなく狸とも繋がっている。鎌倉でも同じではないだろうか。私にはこれまで抱えていたいくつかの謎が解けた。大分は九州でも特異な所だと思うのは個人的な体験があるからだが、もう余り人名は出さないことにしよう。朝夕に欠かさず読教した伯父夫婦は熱心な法華の信者だったが山王日枝神社は法華の守護神だと言っていた。近くに権田原(ガンダーラ)という地名もある。他にも奈良の春日大社、長野や長崎の諏訪神社、神奈川の寒川神社等名前の知られた神社がある。本来これらがどういう立場の神社であるか詳らかにすべきであるが、現状では正しく言い当てる自信がない。それでも日本には古来から大山祇神社のような外敵に対する抵抗組織が神格を与えられて存在したということは特筆すべきことではないだろうか。CSJ を思いついたばかりの頃、ある神社に属する1人の女性が現れて「貴方の言う人間グループと一ヶ月間行動を共にした。その結果私たちと彼らは同じ目的のグループであることが分かった」と言った。

 私が人間に生まれる段取りがついて金沢に行くと決まった時、メンターから「これから行く家は法華経の信者だがロシア正教の方がまともだからあとで改宗した方が良い」と助言を受けた記憶がある。しかし金沢にはロシア正教の教会はなく、一家は間もなく長崎に引越しした。父は改宗なぞ思ってもいなかった。同じようなことがあってガバメントが宗教について助言する場合「君は元型が人間だから宗教は自動的に CSJ になる。だから特定の宗教に入る必要はない」と言うのだろうか。多分そうだと思うが問題はそれを記憶しているかどうかである(人間以外はみんな自分が何かを知っている)。家が仏教の場合宗教からの複雑な要求があった。その家に入れば仲間を1人餓鬼道に提出しなければならなかった。餓鬼道の役をした少年が「親には顔向け出来ないようなことをやらされた」と泣いていた。また別の者がクリルタイという組織に入れられた。他の信者の家族から選ばれたメンバーと共にクリルタイが信者の記録や評価をするのであるが、時々組み換えがある。観察は結構細かいが結論は矛盾している。それだけではない。アバターを他人と入れ替えるチェンジリング(取り替え子)がある。それが起こったのは多分私の場合3~4才の頃だったと思う。今後はこういう面倒なことは起きないのだろうか。今年の春頃私によく似た素っ裸の少年が近くに立っているのを見た。彼は本来の私のアバターであり、なんと80年振りに reunite したのだった。これまで一体どこにいて何をしていたか分からないような長い年月を過ごしたようである。彼の代役がベトナムから来た少年で、最近判ったのはなんと彼は蛇の生まれ変わりなのだそうである。それを知って頭に来た。何故蛇の生まれ変わりが来たかと言うと、私は干支がヘビ年だからである。この男がドジで間抜けで何の助けにもならないのである。いつも靴をどこかに置き忘れ靴下のまま歩いている。財布に金がない。彼が私の realm に入ると私は彼のメンタリティーを伝達され、彼が今いる状況を知るのだが、一体どこにいるのか判らないで不安になる。同軸コイル現象である。そういう時私は寝返りを打って夢を追い払うのである。こんな所にもはなはだ迷惑な陰謀があるのなら干支なぞ無くなった方が良い。これからもし干支の絵を描いた年賀状を受け取ったら送り返そうと思う。

 フランスから来た女が息子と家に来ていた。「ミラボー橋が自殺の名所というのは本当だ」と言った。「500年」の項に書いたように「何のために生まれたのか分からない」という絶望感で幼い女たちが入水自殺したのである。霊界で自殺することは人間が減るということではないだろうか。彼女は妊娠していた。「酒を飲んで酔っ払って○○○する(関西方面の禁止用語)ので妊娠した」と言っていた。「これからはしっかりして立ち直らなければならない」とも言っていたが、一緒にいた息子が「その前にまず無事に出産しなければならない」と忠告した。人間が産む子は人の子が宿る場合が多く、旧体制下では生まれた子供は幼いうちに包丁で喉を搔き切られたが、これも人間が減った理由の一つであろう。西洋の没落の原因は人間の減少である。そもそもイエスがイスラエルの失われた子羊と言ったのはこのことであった。トッドがフランスで「ゾンビカトリックが蔓延している」と呼ぶカトリックでこういうことが行われていた。彼にはプロテスタントという選択肢はないようである。教会に余り行かない世俗主義のゾンビカトリック信者と真面目に教会に行くカトリック信者を地域別に分けて分析しても大した意味はないと思う。結果は同じだったのだから。

 2000年頃、ネットにウクライナの美女たちが国外に結婚相手を求めるマッチングアプリがあって随分多数の女たちの顔写真が出ていたが、時々覗いて鼻の下を長くしていた。中には日本人と結婚した女性もあった。彼女たちが故国を捨てたくなる動機は何だったのだろうか。チェルノブイリの事故で大ダコが発見されたことを書いた。また放射能の影響で人間が既に絶滅した動物に戻って復活していた。最近人間の顔をしてはいるが牙をむいてカメラを睨んでいる者が映っている写真があったが多分犬族でどっちつかずなのだろう。これらはエゼキエルに出ているマゴグであろう。この言葉は相手を過度に刺戟し不用意に使ってはならないようであるが、ロシアが戦っている相手をそう呼ぶのはこの場合相応しいだろう。出国を望むウクライナ美女たちも身近にいるマゴクに気付いていたのではないだろうか。大分古い話になるが、戦後に現れた連続幼児殺人者アンドレイ・チカチーロの元型は何だったのだろう。調停者のトランプ大統領はロシアがまだ好戦的なのに手を焼いている。片やイスラエルではハマスとの対立で調停がうまく行く可能性が見えて来たのは、まだどうなるか何とも言えないが希望の灯りが点ったように思う。しかしアメリカは対南米との麻薬と貧しい移民の問題を抱えている。片やマゴク、こなた麻薬と不法移民だが、問題のルーツが繋がっているかどうかは判らない。これは仮定の話だが、もし立場を変えてロシアがアメリカと南米との間での問題を調停しようとしても、アメリカは容易に調停案を受け入れないだろう。さらなる問題は個人主義の国アメリカには向こう側で人間同士が手を取って団結する動きがないことである。みんなバラバラではいずれ人間は駆逐されると言われている。