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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

私を離さないで (K.イシグロ)

恋があり、別れがあり、仲間外しがあり、教師との会話があり、ミュージックテープを楽しみ、絵画や詩などの課題作品の制作があり・・・そこに出てくる生徒達の一日一日は1970年代前後の普通の学校の教室や寮の様子と全く変わらない。個々の少年少女の息遣いのぬくもりさえ伝わって来るような繊細な描写のあまりに当たり前な情景、運命を受け入れている彼らの従順さ、それらが却って背後の意図の恐ろしさ、彼らの運命の痛ましさを浮き立たせる。映画「ブレードランナー」のレプリカント達は自分たちの短命に対する技術の改良を求めて反乱を起すのだが・・・

臓器移植の場面などがありやはり原作より映画の方が生々しかった。

クローン羊のドリーが公開されたのは1990年中ごろだから、小説はかなり先走っている。1960年の終わり頃すでにクローン人間を作る技術が完成し多数のクローンベビーがいたことになる。然し、家畜のクローンでも成体から体細胞の核を移植した卵子を仮親の胎内に着床させなければならないのだから(いくらSFでも、さすがに人口胎盤も完成していたとは想定出来ない)彼らの場合もそれぞれの代理母がいたことになる。だとすると、宗教が一連の経過を知っていて妊娠した母体に聖霊をもたらし、通常通りに何カ月目かの胎児に魂が宿ることはありうる。私はそういう風に考えるから、この小説の最後にあるような「アート創作をやらせたのはあなたたちに魂があるかどうかを調べるためだった」というような疑問は持たない。魂がなければ完全な痴呆か植物人間のようなものだろうし、現に少年少女たちは豊かな感性や知性を示しているのだから。

今年(2011年)の夏ごろ、NHKのBSでカズオ・イシグロの特集をやっていた。イシグロ氏は作品に独特の視野と時代感覚を見せる作家だが、彼が「死や悪はよく分らない」と言っていたのを聞き、“生”だって分らないのではないですか、と思い上記のようなことを考えた。

私はキリストの言う“永遠の命“を受容する。命は初め肉体に宿り、死とともに肉体を離脱する。ただし永遠といっても無限ではないだろう。魂は不死ではなく、殺されれば死ぬだろうし天人五衰のような衰弱や老いによる終末死もあると思う。ただし人生に比べてはるかに長いスパンで。ずっとずっと上のレベルでは不死もあるかも知れないが。

“悪”とは悪を行う者達である。ここでも私は善悪二元論者である。人間界で人の心は身体に包まれて見えないが、向こうの世界では心がもっと露わに姿に表れるのではないだろうか。地上は人間界も霊界も善と悪との抗争の場である。善であっても必ず善行ばかりをする訳ではなく時々過ちを犯し、それを悪につけ込まれたりする。

「コンスタンティン」という映画は善と悪との対立を面白く描いている。ただし善を代表すべき天使は「悔い改めれば許されるなどと、神は人間に甘すぎる」と、むしろ悪の側に加担している。もう一つの存在は、黒人の役者が演じた現世の管理者(役名はミッドナイト)である。彼らは使命を帯びて、現世の善と悪とのベストミックスを管理している。この構図はいま我々を取り巻く霊界を模(かたど)っていると言えば「そんな荒唐無稽な」と思うだろうか?

実際には善vs悪だけでなく宗教間(たとえばキリスト教とイスラム教)などの対立も絡んで複雑化する。ユダヤ教には聖書に出てくるサドカイ派・パリサイ派のほかにエッセネ派があり、“光の子と闇の子の戦い”という表現はエリエット・アベカシス「クムラン」という謎解き本に出て来て、世俗を離れて暮らすエッセネ派の間で光の子と闇の子の戦いが語られていたと書かれている。

これは言わば代理戦争である。大人同志の戦いになればおおごとにならざるを得ないから。このことをわが事として、私は後で述べるだろう。

また、アルビ派の生まれ変わりであることを自認しているアーサー・ガーダムもこの抗争を常に意識していた(二つの世界を生きて)。これらの例に限らず、善と悪または光と闇の戦いはあらゆる神話上の永遠のテーマである。

幸い、iPS細胞の利用が進歩すれば、その目的のみで育てられたクローン人間から臓器を取り出して移植することは必要なさそうである。神の配慮か。

人口胎盤らしきものは映画の「マトリックス」や「エイリアン」に出てくる。あんな未来的な装置から生まれるものは“女の腹から生まれた者”ではないだろう。イエスは洗礼者ヨハネの死を聞き「女の腹から生まれたものでヨハネ以上のものはいない、しかし天の国ではヨハネも特段に優れた存在ではない」と言った。であるなら天の国は「女の腹から子が生まれない国」つまり出生を人口胎盤システム化した国なのだろうか。

(追記)
2015年6月7日の日経文化欄より。臓器移植をテーマとする新聞小説の連載を終えた作家が見聞した体験を書いていた。脳腫瘍で亡くなった小学生の母親が、息子の腎臓を移植用に提供したことを後悔して「息子の腎臓を返して欲しい。息子は腎臓を取られたままあの世に行った。あの子は腎臓がなくて向うの世界で苦しんでいる」と訴えるのを見て身につまされて貰い泣きしたという体験談である。ずっと前に臓器移植は霊に恐ろしい結果をもたらすのでその危険性を知らせて止めさせてくれと言われたことがあった。もし移植するなら死を宣告されると臓器はなるべく早く取り出さねばならないが、人間の体に生体反応がある限りまだ霊体は肉体から完全に分離してはいないのだろうか。昔ユングがシンクロニシティについて書いているのを読んだ時、これは二人の人間の間の意味ある偶然の一致よりは人間と霊との同時性の問題なのではないかと考えたことがあった。
キリスト教徒になりたての頃、勉強会で「テーマは何でもいいから現在それぞれが最も懸念していることについて言葉に出してお祈りしよう」ということになった。名古屋であるOLが三人の男に拉致されて金品を奪われ、ATMカードの暗証番号を明かすよう強制されて殺された痛ましい事件があった頃で、私は不幸な彼女に救いの恵みが与えられるよう祈った。その後しばらくして5、6人の霊が夢に現れた。中央にいる女性はスイカを被ったように頭を包帯でぐるぐる巻きされ、両眼だけ出ているその眼は泣き腫らしたような悲しみを湛えていた。その夢が何を意味するかに思い当たるまで数日かかった。OLは頭をカナズチのような鈍器で殴られて殺されたのだった。
人間として存在するならばその霊も存在する。このフィクションに登場する少年少女は死後臓器が他人に与えられて自分の霊体からは無くなっていることを発見することになる。現実の世界で善意からまたは法的強制によって死後に器官や臓器を他人に提供した者も同様である。