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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

イギリス

前項で書き落したことを補足します。恐るべき例外もあることはありますが、霊界には「同族相食(は)まず」という一般原則があります。ローマの支配的な主力が狼族または犬族であったとすれば、彼らにとって仲間ではないエトルリア人は恰好の捕食のターゲットになったということになります。細かいことを言えばエトルリア人の中にも犬族が混在していたはずなのでエトルリア人全部ではないでしょうが、大半のエトルリア人にとって死後のローマは悲劇の場所となった可能性があります。どうも私の推測は当たっているようです。
北イタリアでグノーシスのワルド派が一時信者を増やしたのにもそういう背景があったと考えられます。ワルド派がカトリックと手を組んだ俗権によって弾圧されたように、カタリ派はカトリックと結託したフランス王フィリップ2世の軍勢によって壊滅します。後にフランスで王権は革命によって倒れましたが宗教的にはカトリックが今なお優勢です。
犬族は攻撃的で権力志向が強く、私を訪れた犬の子の霊が「我々は相手のことを考える必要はない、負けたら終わりだと教えられている」と言っていました。犬には別の面もあると一般的に認識されています。「権力の犬」という言葉があるように主人に忠実であることです。

 この国の「人の子」は自分を誇らしく自慢に思うでしょうか。事実はそんな悠長な状況ではなく、彼・彼女らは仏教が圧倒的に優勢なこの国で丁度ローマのエトルリア人と似たような関係にあると言えます。己のこの危うい立場を自覚して教会の門をくぐらなければ「47項・負の遺産」の追記に書いたグアナコのように邪悪な霊たちの恰好のエサになり生き血を吸われるか、或いは行いが則を超えて退化する運命が待ち構えています。
霊界はそれぞれの人間が実体は何者であるかを既に知っており、悪魔・餓鬼・
misanthropicな動物霊たち(*註1)は何も知らず父祖伝来の仏式の葬儀で葬られる「人の子」たちを密かに待ち望んでいます。ただし教会と一口に言ってもカトリックも同様に危険であることはずっと警告して来ました(*注2)。
これに反し神道にははっきりと変化のきざしが見えます。これまで幅を利かせて頂点にいた天狗の鼻は折れ、ニワトリは甘く見ていた相手に討たれ「卵を食うものを恨め」と後継者に言い残したそうです。相手とはかつて一晩中神(実は悪魔)と闘って引き分けたユダヤの伝説の始祖で、彼はイスラエルにも必ず革命を起こす決意を秘めています。イチジクに待望の新芽が芽生える時が近いかも知れません。
私がこれまでYHWHを悪神であると書いて来たことを「国際問題になる」と非難する声があったのですが、私だけではなく他国にも同じ意見を言う者がいて、ユダヤは私に対し特別な反感は持っていないらしいのは幸いです。かつて賢者ソロモンはこのことを知っていたが「我々はこちらを選んだのだ」と運命を受け入れたのだそうです。
他方私は天皇家に対する遠慮もあって(天皇を露骨に悪の元凶のように書いている陰謀論のブログもある)47・負の遺産」を書く時最初は有力な神の敗退を誰のことか曖昧にぼかして書いたのですが、「国際問題になる訳ではない」と助言され読んだ人が判るように修正した経緯があります。
女神らしき人物が現れて私を強烈に睨みつけたのは47項をアップして数日後夕食に野菜チャーハンを食べた夜でした。何か曰くがありそうで卵も鶏肉も普段はほとんど食べないのですがチャーハンにはどうしても卵が欲しかったのです。卵は養鶏家がヒヨコを育て鶏にエサを与えその代価に収穫するもので我々はそれを買います。卵をもらうことで鳥の命を奪うわけではないし市販の卵は無精卵で放っておけば腐り、孵って育つ機会を失う訳でもありません。卵を食べて恨まれ生き血を吸われるのは日本だけらしく(ネズミの方がまだましだと言われているらしい)我々はこれを認めればマヨネーズやほとんどのお菓子も食べられなくなります。いままでこの理屈が通用しなかったらしい。
鶏肉は誰も警戒心なく食べますが、インドのパンジャブ地方でも料理に使われ、また日本のある地域でラーメンを気に入ったイスラム教徒が豚肉の代わりに鶏肉を使ったラーメンをリクエストし喜んで賞味しているようです。インドやイスラムは鳥との間で話が付いているのでしょうか。食の習慣には地方色があります。鳥類の持つ力の恐ろしさは黙示録に書かれています。
何度も書いたが肉食は対価を要求される。突然来た何人かの少年たちに冷蔵庫をチェックされたことがあります。「肉がない」「捨てたのだ」「買ってないんだよ」と話している声が聞こえました。一時「肉も食え」と盛んに言われた時期があり(理由は使徒言行録のペテロと同じでしょう)、では肉じゃがを食べようかと少量の牛肉を買って帰ったことがあります。後で聞くと家までビーフマンが付いて来たが、玄関先で「食べ物を粗末にするなよ」と言い残して帰っていったそうです。前に住んでいた団地でバーベキュー大会があった時は牛の霊が大勢群がって凄かったらしい。彼らに恨まれないためには肉を食べない他手はありません。
今上天皇の生前退位に当たって女系宮家の創立が検討されており、万世一系の概念から私はそれに内心強く反対でした。例えば仮に愛子妃が田中某さんと結婚し男子が生まれて皇位を継ぐとすればそれ以降は田中家のY染色体が天皇家のフラッグを荷い、何々委員会で物言う竹田氏のように疑う余地なく明治天皇のY染色体を持つ家系は無縁になります。女系宮家の創立を間違いと言うべきかどうでもいい事と言ってよいか。いま私は後者に傾いています。問題を抱えたキング・ジェームス版聖書を正典とする英王室と同じく、伊勢や宇佐を崇拝する皇室が有名無実化すればそれだけ皇室と神社の関係が希薄になりむしろよい事かも知れません。天照は采女だった(つまり天皇家の母系の始祖だった)との声があります。ただし南北朝時代にあったように天皇家のY染色体を持つ人物が将来「我こそは正統である」と名乗り出て紛糾する可能性はあります。

 代表的仏教国であるこの国を希望する者は少なく「人の子」は黙示録の人数よりずっと少ないそうですが、49項の付記2に挙げた数名の芸能人の他に何人かを把握しています。実はヨハネも転生してこの国に存命中です。これらの方々が自分自身の置かれた危機に気付き自ら自覚的選択の道を歩み始めることを期待出来るでしょうか。誰しもアポロンの神殿に書かれた警句「汝自身を知れ(グノーティ・セアウトン)」に到達するのは至難の業に思われ、黙って手を拱いているに忍びない心境でした。そこで私は49項をアップした後マリアの子ミホラに匿名の手紙を書いたのでした。彼女は東京の私大を卒業し長く女優をしているよく知られた人物ですがどれだけ自覚があったでしょうか。私信なので「食い物の恨みは恐ろしい」と言われる食の危険性やミザラブルに終わった死後の運命の例を具体的な名前を出して書いたのできっと衝撃を与えたことでしょう。生きている人間は先ずむこう側にも食があり性があり金があり死があり、第二の命がこちら側の生き様と深い関係があるという認識が薄く、またそこで何が行われているかを知らない。私の書いていることを受け入れるにはコペルニクス的意識改革が必要で、絶対多数の人間は考えが甘すぎて危機意識がない。そのことに自ら気付きある程度の年齢になったら余計なことは捨ててひたすら死後の無事通過に専念せよとの警告があります。そういう訳で歌い手のMWさんにも手紙を書かなければならないと思っていますが、突然匿名の手紙を受け取ってもどうか悪意に取らないで下さい。
ちなみにアポロンの神殿には「汝自身を知れ」と並んで「度を越すなかれ」という警句もあったそうです。欲望にのめり込んだりグルメや酒に度を越さないことは重要です。スポーツ選手はルールを守り努力家で大体が善良な人間が多いのですが往々にして彼らの過食振りは常人の域を越えています。

 私の生涯で一人だけ強烈な印象を残した例外がいました。学童時代を過ごした地方都市で私の同年代は多分まだ半数以上が生きているので名前は仮に川口とします。私は彼を中学に行って初めて知ったのですが、小学校が違うので詳しい生い立ちや過去に学校で何があったかは知りませんでした。彼は先生も生徒も特別視する問題児で欠席が多く授業にはたまに顔を見せるだけのようでした。小学校の担任の女の先生に嫌われ、いじめられたのが孤立するきっかけだったと聞いたことがあります。中学二年の時彼が年長の与太者と夜の街で渡り合うのをクラスメートが見て、それを教室で興奮して話していたことがあります。その中学では生徒達が年一回秋に萩山に行って枯れた萩を鎌で刈り取り校庭を掃くための箒を作る行事がありました。その作業に彼も来ていて、偶然通り掛かった時彼は人から離れた所にいて、手に赤い柄の大振りのジャックナイフを持って木を削っているのが見えたのにはドキリとしました。三年生の時彼が校庭でそのナイフを弄んでいるのが見え、誰かが通報したらしく生活指導の結構年配(多分軍隊上がり)だががっしりした体躯の体育の先生がまっすぐ彼に近付きナイフを渡せと黙って右掌を差出すと、彼は突然駆けだしてそのまま学校の外に逃亡し、私達は遠くからその一部始終を見ていました。それが彼を見た最後でした。その後彼が少年院で喧嘩し、相手が隠し持っていたガラスの破片で首を切られて死んだというショッキングな話を聞いたのは高校生になってからだと思います。
川口もまた「人の子」だったと知ったのはつい最近です。私と彼とは全く接触がなかったと思っていましたが、実はたった一度彼に話し掛けられたことがあったのを思い出したのです。二年生の初めの頃だったでしょうか。先生からホームルーム(先生からの連絡や討議の時間)の後すぐに全校生徒集合の朝礼があるとの伝達があり、生徒たちがぞろぞろと教室から出て来るのを私は先に校庭に出て待っていました。すると川口が私に向かってつかつかと歩いて来て、目の前に立ち止まると「お前は自分のことを知っているのか」と尋ねたのです。瞬間私は「02・ムネモニックな人間」に書いた記憶を思い出しましたが黙っていました。そして彼は「俺たちは神の子だ。ここにいる連中は皆動物か悪魔の子だ」と驚くようなことを言い出しました。私は混乱して何と返事していいか正直分らなかったのですが「僕はそんな風には考えない」という言葉が口から出たのはほとんど自分の意志ではありませんでした。彼は「そうか」と言って「お前の親は何をしている人か」と聞いたので「N高校の先生をしている」と答えると納得したような顔をして小考し「どうせ親だって何者だか判らないけどな」と言って戻って行きました。その間5分位だったでしょうか。級友たちが寄って来て「川口は何て言ったのか」と尋ねたのですが、私は「何でもない」と答えて喋りませんでした。その出来事はみんなの興味を引いたようで、あとで彼の担任の先生から私は「お前は川口の仲間なのか」と聞かれたのです。私がきょとんとしていると先生は「川口がお前を脅していたと人が言うので、川口にお前に対して何か恨みでもあるのかと聞いた所、とんでもない、あいつに手を出す奴がいたら俺が相手になる、と返事した」と言うのです。この質問にも私はどう答えていいか判らないで黙っていました。
彼には特殊な霊視の能力があったのでしょうか。当時あの町には爬虫類の顔をした危険な連中が大勢いたそうです。彼が死んだ後人間の時とは違う整った顔をした霊が現れ(女も「人の子」はみな美しいとペーゲルスが書いている)、剣を使う才能が具わっていて敵を破って脱出したのだそうです。ヤコブが敵と闘って束縛を逃れたように、それがなければ彼とて命運が尽きていたでしょう。人間だった時を振り返って「田舎で百姓でもしてひっそりと暮らすんだったか。あのまま大人になっていたら何を仕出かしたか判らない」と反省し、私のことを「彼は柔軟な考えだった」と言っていたそうです。地上には敵に取り巻かれ危機にさらされている仲間たちが大勢いる。降りて来る時は「みんなのために」が合言葉だったのです。

 イギリスには30年程前に言ったことがあります。その時はエジンバラからカンタベリーまで列車で回りました。今年4月復活祭の時節に再訪しバスツアーでリバプール・バーミンガム・湖水地方・オックスフォードを巡ったのは丁度前の旅行で行きそびれた箇所を補完したことになります。前にも感じたことですが、イギリス人は目が合うとにっこりと微笑を返してくれ、それが若い女性だとこの上なく幸せな気分になります。結構あちこちに行った私ですがこのレスポンスは他の国ではめったに経験しないものでした。昔私は7世紀にイギリスで生まれ聖職者になったと言われたことがあり、そのせいかイギリスに特別な親しみを感じています。
46
項でヒトラーのやったことは“勝手放題なヤハウエの非道に憤懣やる方なかった神のドイツを使った恐るべきリベンジだったのではないだろうか”と私見を書きましたが、ヒトラーがやっている事にも許容の限度がありチャーチルがそれにストップをかける役回りでした。
同じく46項に“イギリスは悪魔さえも手を出したがらない腐敗霊(ゾンビ)が充満した国で革命は失敗だった”と書きましたがそれが何故なのか気になっていました。酒だけが理由ではないでしょう。
今度の旅行の最後でロンドンのフリータイム後の集合場所はトラファルガー広場のライオン像の前でした。地下鉄で戻り集合時間にはまだ30分程あったので夫婦でマックに入りコーヒーを飲みながら休んでいました。しばらくして妻が“I don’t know”と叫びパニックを起こしていて、気が付くと浮浪者風の黒人が妻に何かを求めていました。すると隣の席にいた若い女性が「彼はこれを欲しがっているのだ」と自分のコーヒーカップから透明の小さなシールを剥がして男に与え、我々も納得して同様にシールを与えると、男は彼女に感謝しつつ離れて行きました。「そういうことか」と安堵して残りのコーヒーを飲んでいる時彼女はちらっと私を見てニコッと笑ったのでした。このトゲのない魅力的な女性も助からない運命なのかと思うと悲しくなります。以下は私が考えた何故イギリスが不幸な国であるかの理由です。
  1. ジェームス一世(在位:1567-1625)の指示によって改訳された欽定訳聖書は英語表現として最高レベルの翻訳と称賛する見解もありますが、悪魔崇拝の思想を内蔵し故意にイエスの言葉を黙殺して聖書の持つオリジナルな言葉の力を削ぐような作業がなされ、それらが聖書に質的変化を齎し以来イギリスに闇が広がったようです。これに先立つヘンリー8世のローマからの離脱は怪我の功名だったと私は考えます。
  2
.アタリが「この世の神々はカニバリズムの勝利者であった」と言うときその神々とは具体的に何を指すのでしょうか。仏教で仏陀は
豚であり弟子の中で最高の知恵者文殊は虎であり目連尊者はワニでした。捨身飼虎の前世譚とは豚が飢えた虎に食われた話です。彼らは自己自身の罪業の消滅と救済を求めて輪廻解脱の宗教を興し1000年間はこの教えが正しく機能すると説いたのです。期限切れし先祖返りした今日の仏教を危険視する所以です。仏教を例にとっても動物霊が人間になった時の彼らの思考レベルの高さを再認識します。神の子イエスがカニバリズムではない宗教を興したのは全く新しい事件で霊界に衝撃を与えたようです。
ロンドンにはセントポール大聖堂があり今回のツアーガイドが言うにはそれはバチカンの次に壮大な聖堂だそうです。パウロはワニでワニは他の生き物に恐れられコロニーを作って仲間だけで群棲します。セントポール大聖堂がその根城になったと考えられます。歴代の法王の中にもパウロと同類がいるようです。
  3.
カンタベリー大聖堂と深い関わりがあるアウグスチヌスはイギリスにとって災い以外の何物でもないと言って過言ではないでしょう。彼の悪に対する考えは「チーズの穴」で表現されるように全く危機感も罪悪感もなく、イエスが“私たちを悪からお救い下さい”と唱えよと教えた主の祈りを骨抜きにしています。イエスなぞ自分を救うことも出来なかった只の人間だと言ったあの法王と同じ考えです。
23・異端」で書いたようにアウグスチヌスは洗礼に関する客観主義に立ち、洗礼の実効に対するアプローチも杜撰です。受洗者から汚れた霊を取り除く火の洗礼は洗礼有資格者に伴う聖霊の働きで、資格のない汚れた霊が付いた洗礼者では洗礼の実効は期待できません。プロテスタントに再洗礼派が生まれた所以でしょう。
アウグスチヌスがイングランドの司教になると信徒たちにローマの慣習通りを要求しますが、「言った通りにやれ」は悪魔の決り文句です。善なる神か悪なる神かを見極めることはたしかに難しいですが、地域の慣習を尊重し良きエスニックな神の協力を得ることは重要です。例えばドイツではバイエルン地方の地霊が今度の革命で人間に協力してくれたそうです。またアウグスチヌスの適格性に疑いを持つ信徒が試みたテストにも失敗します。前もって助言者が「もし次の会合でアウグスチヌスがあなた達を立ち上がって迎えるなら彼は合格だ」と教えたのですが果たして彼は席を立って出迎えませんでした。
アウグスチヌスは父と子と聖霊による三位一体について熱く論じているようですが、キリスト教の骨格を三者で表すとすれば父と子と仲保者サタンでしょう。父なる神が下す聖霊はもし苦しみを耐え抜いて生き残ることが出来るなら審判で弁護者となるでしょうが、無念にも私の所にいた1000体以上の随伴霊が食われてしまったように地上では悪に取り囲まれ悪の齎す苛酷な艱難に遭遇するのです。彼らが行かされる霊界の学校は本物の悪魔の学校で「キリスト教は悪魔の宗教、人間は悪魔の手先、サタンは悪魔」と、この世とは逆のことを教えます。声を聞くユダヤ人が騙された訳です。私のような特殊な人間には「余計なことを言うな」ときつい箝口令が敷かれています(*註3)。また「聖書を拡大解釈するな、本当のことを言うな、言われた通りにやれ」と教えています。これらの指示に少しでも違えば命を奪われるのです。この国では6月と7月に食事も与えられない厳しい特訓が行わる結果霊たちは良心や持てる能力を損なわれる始末で、空腹の余り食べてはならない物に手を出すこともあり得ます。普通の食事が準備されているアメリカの方がまだましだそうです。
  4.
バッキンガム宮殿の前にも人とライオンの像があります。ライオンによって王室の権威を象徴しているとすればライオンの霊が現れるかもしれません。霊とは言えライオンはライオンです。無事では済まないでしょう。
容易に信じ難いことですが薔薇の花にも何か秘密があって植えると悪い影響を及ぼすらしい。養豚業も盛んで品種改良が率先してなされ、世界に拡大したヨークシャー・バークシャーの名は教科書にも出ていました。牛に飼料として与えた骨粉BSEと呼ばれる深刻な病気を引き起こしイギリスで最初の犠牲者が出ました。食に潜む危険への警戒が足りないとすれば現実的な脅威になります。
1項に書いたように「身も心も生きたまま奉げます」という祈りの言葉はまだ続いているのでしょうか。
アウグスチヌスを派遣した教皇グレゴリウス(在位590-604)がブリタニア島を訪ねた時、色白の肌・精悍な容貌・美しい髪をした少年たちが売り物として立っているのを見て「ああ、何と悲しむべきことか、このように明るく精悍な顔をした少年たちが暗闇の王子の所有になるとは」と嘆き、これらがアングル人という部族の出身と知ると「天使の顔つきをしているからぴったりの名だ」と讃嘆し、更に尋ねてその国名がディアラ(デ・イラ、神の怒り)と呼ばれていることを喜びその地に布教せんとする情熱を燃やします(ベーダ・英国民教会史より)。神の子たちが人身売買されて神の怒りを買った例がアモス書にありますが、古来イギリスは神を侮(あなど)る勢力の方が支配的な地域だったとすれば残念の限りです。
フリータイムで行ったウエストミンスター寺院はちょうど復活祭の時期とあって入場者が延々長蛇をなし教会内部も大混雑でした。無名戦士の墓の前であふれ出る涙を必死に抑え、特殊な者だけが知っている復活のコマンドを何度も何度も繰り返しながら、この国の礎となった名誉ある死者たちの墓を人波に押されつつ経巡ったのでした。


(*註1)象やキリンはmisanthropicな動物たちの人間に対する蛮行にあきれているそうです。馬やロバはもともと人間嫌いではなく、羊や山羊も革命以来philanthropicなグループに入ったそうです。自然界で草食獣とされる動物でも霊界では肉も食べることもあり侮りがたく、増え過ぎた豚ですが最近は主流に反旗を翻すグループが出たようです。霊界は複雑怪奇で容易には理解し難い世界です。

(*註2)正教は最後の望みの綱として期待していたのですが私にとって残念な結果に終わりました。あの世の聖ニコライさえ時代に合わないと慨嘆しているのに、司祭や助祭の読む聖書は今なお堅苦しい文語訳で聞いていても意味が聞き取れず、理解がついていけないのでミサの間中しのびよるswimmerと必死に戦わねばなりませんでした。基本的な「人はパンのみによって生きるにあらず(ひとの肉体はパンだけで生きるが)、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる(ひとの霊体はイエスの言葉を糧とし咀嚼し吸収することによって永遠の命へと生きる)」の教えの意味が捉えられておらず、大仰な儀式で聖餐が行なわれているのは本末転倒ではないでしょうか。サタンを見直す考えは異端扱いになり壁が厚そうです。司祭がミサを厳しく取り仕切り、神父が聖所で唱える祈りと信徒が外で歌う聖歌のタイミングがぴったり合うよう心労するが如きは余りにも形式偏重でした。「神の僕」をシンノボクと読むような独特な慣習にも馴染めず聞いていて理解不能でした。ディープラーニングが必要とされるこの時期に問題を抱えた「信条」に拘り過ぎではないでしょうか。信徒の目を開かせ信徒が天に導かれるための教会ではないと判断し、決心して万人司祭・聖餐式月一回の新教に戻りました。ただし正教の司祭はカレンダーに忠実で実に精勤しており晩祷の厳かさには感銘を受けました。批判的なことばかり書きましたが彼らの誠実さには相応な報いがあるのかも知れません。
私にとって意外にも朗報はモルモンにありました。「人の子」が審判に合格しなくても危険な動物霊に渡すことはないそうです。また審判に通らない絶対多数に対し「39・エピソード」に書いたように「ここで自殺せよ」とは言わないそうです。

(*註3)人の気付かないフィリバスターという妨害があります。私もこれに散々悩まされたのでした。例えば良き助言霊が「7月に〇〇山に行くと神様に逢える」と教えようとするとフィリバスターが入り込んで後半部分を「悪魔が出る」と差し替えるのです。イスラエルもこれに散々やられたらしく見破るのは至難の業らしい。霊界は嘘と欺きの世界です。物言わぬ筈のオーブまでが私の枕元に来て「我々は騙された、騙された」と無念さをかこつのです。もと仏教徒でしょうか。