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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

退化

 昨年(2014年)11月にNHKのヒストリアという番組で世界遺産に指定された和食をテーマに取り上げた。その中で和食は道元が南宋留学時代に学び持ち帰った禅宗の精進料理の影響を受けて画期的に質を高めたことが紹介されていた。渡航間もなく道元はかの地で指導的地位にあるとされる老典座と出会う。その時老人が美味と評判の高い椎茸を得て嬉々として持ち帰る様を見て「尊い経本か仏像仏具ならいざ知らず、僧たる者が何故食べ物なぞにそんなに喜ぶのか」と問うた。老人は道元に「お前は何も分っていない」と答えて去る。やがて禅を修め、人生の基本である日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であると悟った道元は、わけても日々の暮らしの中心的行為である料理し食することの肝要性を認識する。帰国に当って老典座は道元の学びの成果を祝福したという。番組の中で皿の上に載った鶏の姿形をしたいわゆるモドキ料理が紹介されたが、それは見た目だけでなく味も鶏そっくりなのだそうで、今日台湾にこれを供する飯店があると聞いたことがある。これぞ味にこだわる中国人の調理の才能が生んだ、欲を満たしながら欲の持つ罪(殺生)を犯さない類稀な料理である。これまで書いたように中国人がしばしば似て非なるものを作ることを私はネガティブな面でしか捉えなかったが、その才能にはこのような有用性の例があることにまで考え及ばなかった。真剣に戒律を守り来世の救いを求める過程で禅僧たちは極めて重要なことに気付きその解決策を模索した結果がこれだったのだ。
敬虔な食習慣の例であるコシェルもハラルもデジデリウムの一種だそうである。
昨今の日本と人民主義中国との芳しからぬ関係に影響されて、中国を良いイメージでとらえようとするのとは逆の動機が私の思考中で優先していただろうし、それが中国で生まれた禅を先ず否定的に見る短絡を誘ったのだろう。中国には行ってみたいと思わない私の潜在意識は「二本足で食べないものは両親だけ、四本足で食べないものは机だけ」と表現される彼らの食に対する貪欲さ、更に彼らの住むその生活圏に対して、自ずと拒否感を抱かせていた。ある番組で一般の中国人女性が「野生の動物はどれも美味い」と言っていたのは、彼女らが日常的に蛇・蛙は言うに及ばず野山に棲息している鳥や四足獣も巧みに料理して食べる事を意味するだろう。代表的なゲテものである猿脳料理を「猿は人間に最も近いので美味、特に脳は絶品である」と言い伝える伝聞には、そんな料理を想像することさえ願い下げだし実際に目にしただけでも我々は精神的に深刻なダメージを受けるだろう。禅が創始した料理は中国人の生き方の具体化である伝統的食習慣へのアンチテーゼと考えられる。大雑把に言って歴史上人間は生存本能に導かれて食べられるあらゆるものを食べて来たであろうことは否定出来ないが、各民族を特徴付ける食の習慣や価値観の地域差、さらには本能的な倫理観の個人差は大きい。

 呉清源が100歳で死んだという訃報を聞いて、もう40年も昔彼の打碁をテレビで楽しみ、まれに対局の解説者として出ることもあったのを思い出した。その吶々とした下手な日本語には独特の味があり人柄が滲み出ていて、時々見ている私の胸が熱くなったのは何故だろうか。局後に解説者として盤上を指さしつつ「この手は・・・」と失着をとがめる言葉は厳しいのだが、打ち手を責めるよりは棋理に照らし石の不合理を咎め、言われた方も穏やかに納得してむしろ喜んでいる風があった。藤沢秀行の特集番組で見た、彼を師と仰ぐ多くのプロが集まって開かれる定例研究会での秀行の毒と怒気ある言葉使いとは全く対称的だった。私も学生時代によく下手な碁を打った頃、負けた相手に遠慮会釈なく酷評されると「おっしゃることは尤もだがお前とは二度と打ちたくない、所詮楽しみが目的ではないか」と負け惜しみに思う事も多かったことを思い出す。そう言えばあの当時実務家として激動する中国の政治の中心にいた周恩来にも呉清源と同様畏敬の念が沸くのを禁じえなかった。歴史上のかつての思想的偉人を想うにつけても、中国人だからと言って単純に一括りしてはならないことを反省する。
 禅に対するこれまでの私の迷走は汗顔の至りだが、戒律を前提とするなら禅の出発点は決して悪のたくらみではなさそうである。しかし今日禅が救いの教えとしてどれだけ信頼に足るかについては楽観出来ない。食を重視しても修業僧ではない禅の一般信者がイスラム教徒のハラルのように食の習慣を守っている訳ではない。俗化して欲にまみれ金に汚くなった宗教は恵みを齎さない。法会で怪しみもせず法華経を読むことはないだろうか。例えば壮大な山門と四方を取り囲む長い回廊を持つ高岡の禅寺で本尊の向かって右手にいる脇侍は文殊であるが、見学者を案内する僧は文殊の知恵にこれっぽっちも疑いを持たない。ここにも文殊が現れて死者を救いとは逆の方へ導くこともあり得る。禅の仲保者の任を担うのは誰でその働きはどうだろうか。上部構造としての須弥山は現在よく仏国土を導きあまねく統治しているだろうか。私には沈滞したイメージばかりが伝わって、どう考えても既に仏教グループ全体が悪のパワーになす術なく順化されているとしか思われない状況で、禅のみが今尚よくそれに抵抗し初志を貫き続けるのは至難の業ではないだろうか。希望としてはそうであって欲しいと願うのだが。
 どのキリスト教宗派もホスチアを踏襲しているが、その始まりである最後の晩餐でイエスがパンを割いて使徒たちに言った言葉「これは私のからだである」が「これから私は霊的存在となってあなた方の内側にいる」ということを指すとする解釈が成り立つのではないか(下記註*参照)。イエスは弟子たちに聖餐式の原型を伝え、それを聞いた弟子たちの驚きの反応が聖書に書かれているが、彼らがはっきりとその意味を受け取り信者たちにも伝わっている様子はない。その曖昧さは悪に付け入られて「神の似姿である人間を食さなければ救われないとキリストが教えている」と捻じ曲げられ、カニバリズムを是認するのにずるがしこく利用されたことを知る由もない。悪人正機説が悪魔を喜ばせたようなものである。カタリ派がそうしたように、ホスチアは廃止してしかるべきである。聖餐式も別項で後述する予定のマリア信仰でも、キリスト教は散々に悪魔に裏を取られた。天の国の合格者さえ厳正な人選が行われて然るべき魂が送られたかどうか疑わしい。私の考え過ぎだろうか。

 旧約の「汚れたものを食べない」という教えに対し、キリスト教の特徴の一つはマルコの「神がお造りになったものは全て良いものであり、感謝して受けるならば何一つ捨てるものはない」であろう。イエスは「口に入れるものはすべて清浄であって身体から出るものが不浄なのである」によってユダヤ教のみならず先行するあらゆる宗教および後発のイスラム教に対しノーと言っている。にも拘わらずイエスの物語で食卓にパンと葡萄酒と魚以外は出て来ないのは何故だろうか。イスラエルに旅行した際Peter Fishと呼ばれるエボダイに似た魚のフライを食べた。魚に関しては、イエスの使徒たちが漁師であること、またキリストのシンボルマークが魚であるようにキリスト教は菜食主義ではないことを表している。

「異端」の項で書いたエテ公にされた映画監督は自分の名前を出してもいいと言っているそうであるが、関係者がまだ多数生存している今の状況ではさすがに問題があるだろう。彼は幅広い体験に基いた本も書き残し、多彩な才能を示した人であり、私生活について話題になることも多かった。転生は様々な飲食の摂取歴や公的・私的な幅広い行為と彼がかつて属した宗教がその観点から下した審判による差配の結果であってどれが直接的に重要な要因であったかは分りようがないが、名前を出すことで人間の真の姿は何であるかという事実(私一人が知り他人は容易に同意しないであろう)の具体例を示し、人々にインパクトと自覚を与えて意義あることだと本人は諒解しているのだろうか。肝の据わった人物である彼の笑い顔が見えるようである。
「可逆変化」という言葉を耳にする。それは無節操に食欲や物欲に執着したり倫理に外れた行いをした人間の霊的な姿は既に生きているうちから退行することを意味する。人の受精卵は胎内で「個体発生は系統発生を繰返す」と言われる変化の過程をたどるが、悪しき慣行の積み重ねによって霊的な身体は発生過程を逆変化で辿り、姿形を人間から動物に退行させるのである。高山寺にある有名な鳥獣戯画は本来一枚の和紙の表裏に書かれたものをはがして2枚の絵巻物にしたものだという。表図に描かれた個々の人物は裏面に描かれた猿・蛙・兎に対応し、人間が人間ではなく動物になり下がっていることを暗示しており、鳥羽僧正にはそれが見えたに違いない。マタイ福音書で「報いを受けてしまっている」とは既に退化していることを意味するだろう。ゾロアスター教は蛙を悪の代表として忌み嫌う。

 平凡な会社員として働き、終業後には頻繁に友人達と麻雀に興じ、何の肉かも分らないモツの味噌煮込みを何の躊躇もなく食べ、旺盛な性欲を持て余していた30才前後、霊的な私はヒゲの生えた手足にひれのある海洋性哺乳類のような顔になりかかっていたとずっと後になって言われた。だから無自覚に凡俗のまま気ままに欲望に従って生き、知らぬ間に罪にまみれた身体になった人間は、死後自分が既に人間ではない何者かになっていることを発見し愕然とするだろう。霊界を題材にした作品の多い諸星大二郎という特異な漫画家がいる。彼が描いた、首だけ人間だがクラゲのような身体をして虚ろで悲しげな顔の女の図を見て、私も全く同じ姿の霊を夢で見たことを思い出しどきりとしたことがある。イカのような不気味な姿の男の夢も見た。女三人が冷蔵庫いっぱいの高級な肉や野菜の食材を使って卓上に次々と豪勢な料理を作り食べつくす番組があった。あんまり度が過ぎるとあんたたちもまともな姿ではいられませんよ、いやもうどうにかなっているかも、と呟かないではいられなかった。
 神よりはマモンに仕えた者と言えばその代表としてロスチャイルドやロックフェラーの名が思い浮かぶ。ただし彼らも教育や慈善に奉仕しただろう。宗教は麻薬と見なす唯物論を地で行って何らデジデリウムなしの生き方をした者達もいるだろう。もしくは性の悦楽に耽溺し肉欲におぼれた男女。イエスが「この世がある限り天の律法が無効になることはない」と説いたことを考え合せると、それらの生き方の違いによって結果的に各々があの世でどのように異なった霊的運命のコースを与えられたかは、決して口外出来ないことだが他方いたく興味関心を引かずにはおかない。

(註*)
イエスとロゴスの関係もそうであった。”人はパンのみに生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉(ロゴス)によって生きる”とは”霊の身体は神の言葉をパンを食べるように糧として摂取し、咀嚼し、吸収することによって永遠の命を与えられて生きる”という意味であろう。だからミサはホスチアを食べるためにあるのではなく、神父から神の言葉を戴くためにある。大仰な聖餐の儀式をする宗派は「解かっていない」と笑われている。