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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

虫たち

 以前、釈迦が書いた「仏教原典のパーリ語は虫の言葉」と言われてこのブログにそう書いたことで、釈迦が虫とどういう関係があるのかと、判然としない思いがありました。最近こんな夢を見ました。若い女性が食卓について食事をしようとしています。色白の女性でこの世の人間と同じような衣服を着て、決して見苦しい姿ではない。女性の前にサラダのような野菜が盛ってあります。彼女がそれを食べようとして口を開けた時、彼女の口先から蛇腹のような折り畳みの口吻が出て来たのに驚かされました。彼女はその特殊な形をした口に野菜を運び、顎全体を使って食物を噛み始めました。私は目を覚まし、彼女は昆虫なのかと考えていました。子供の頃そういう風に口をモグモグと動かして草の葉を食べるバッタがいたのを思い出したのでした。

 翌朝女性霊が「彼女はあんな風だから人前で食事が出来なかった。でも貴方のお陰で治って良かったのだが涙が流れて止まらなかった」と私に感謝したのです。そして次のような話をしました。彼女たちは昔インドに生まれ、バラモン教の神を信じて一生を終えた。死後集められた場所には同じ信仰の女たちがいて(並んで咲いたチューリップに鎌を揮うように)みんな撫で斬りにされ、食われて残った空体は虫に宿った。彼女たちは虫になり(前に書いたように悪魔に食われると虫に落され虫から出直さなければならない)、虫としての長い期間(凡そ500年位か。嘘八百の宗教に対する憤懣やる方ない年月だったとも言うし、お互いの姿を見て大笑いしたとも言う)を終えて再び人間に戻った。然し次に死んだ時前世が虫だったため口が虫と同じだった。このことは「ネフィリム」の項で顔に前世の特徴が残ると書いた通りです。そのように悪魔の餌食になったのが原因で虫人間になった霊は昔も今も多数いて、彼・彼女らは修業中の釈迦の人となりを見出して救済の道理を教え、バラモンとは別の宗教を興したのが仏教だったと言うのです。
黙示録第9章で底知れぬ穴から立ち昇る煙の中にいる夥しい数の武装したいなごも同じで、彼らはかつて悪魔に食われて虫になり今尚虫の姿を残し、戦う意思のある死後霊となったもと人間たちのことではないでしょうか。前項に書いた「オピニオンリーダーとして広範囲に活躍している人物」には黙示録を読み解けるだけの能力がある筈と言われました。
パーリ語はインドの周辺国で上座部仏教の用語としてそのまま受け入れられ、その言葉には訴求力があったと思われますが、漢訳されて日本に伝わった北伝仏教はさらに日本語化され、どれだけ仏に訴える力を保ち得たでしょうか。まして経典の音読は読んでいる僧侶以外の一体誰が理解出来るでしょう。今の時代はなりすましのニセの仏を呼効果があるぶだけかも知れません。

 私は家で煙草を吸います。煙草には魔除けの効果があり、私は子供の頃からK語を流暢に話すアビセンナの霊に付き纏われていたが(これは嘘でアビセンナにやられて彼を恨んでいるコリアンの悪霊だった)、「大人になって煙草を吸えば離れるだろう」と言われていたそうです。これが原因でイスラム教に一抹の疑念を持ったのです。私に虫の前世譚を話した女性霊も「スモーカーの家だから来て話すことが出来た」と言っていました。そうでなければたえず見張っている悪霊が入り込んで「余計なことはいうな」と暴力的に邪魔されます。うまく逃げないと捕まって食われてまた同じことの繰り返しですし、そういう話はよく聞きます。親鸞が「この世は一定地獄ぞかし」と言うように、我々のいるのは悪霊に取り巻かれた世界です。私に情報を与えるのは後が恐ろしいとても危険な行為なのですが、彼女たちには覚悟があったようです。元来仏教はそんなに悪い宗教ではなかったが、何者かに乗っ取られたのだと伝えたかったのでしょうか。

 チベット仏教は悪魔崇拝であるとの認識がありますが、隣接するインドのバラモン教の神々を神ととらえればその敵は悪魔ということになります。それはユダヤ教が「キリスト教は悪魔の宗教、人間は悪魔の手先、サタンは悪魔」と言うのと同じ事と思われます。チベット仏教の聖地カイラス山は人間が救われない現状を「このままでは良くない」と革命を支持する側だそうです。「不干斎ハビアン」の項で「仏教は善悪を相対化しケースバイケースだとする」ことの意味がやっと分かったのです。立場の違いで善悪が逆転します。人間から見てバラモンは悪魔の教えであり、バラモンから見て釈迦が始めた仏教は悪魔の教えであり、オリジナルの仏教の立場から見て今の仏教は悪魔の教えだということになります。

 私自身が昔仏教に関与していた者なのでしょうか。いつも悲しそうに泣く少女霊の声が聞こえていた関東の自宅で、さかんに私をこき下ろして絶望的な評価を口にしたのは仏教の手先の者達で、仏教は私の敵だと思っていたのでした。だからN市に行ってキリスト教に改宗し、このブログを書き始めた頃、その地の仏教の少年が来て「十全自在菩薩に悪魔と言われたくなかった」と嘆く理由が理解出来ませんでした。大きな寺があり鎌倉武士に縁のあるK市では私の引き起こす現象がある如来の再来に違いないから宗派再興の時が来たのだと促されました。また今いる町では私の態度に対し「何のために今まで頑張ったのか」と法然が嘆いたという話が伝わりました。自分語りはするなと言う声ともっと語れと言う声があります。
夢の中で少年が私を見つめて「ブロガーか?」と呟くのを聞きましたが(既に私は霊界で有名なのでしょうか)、私は夢を見ているだけではなく、そこで何かをしているようです。後出しですがネフィリムを見た時にもあっと驚くようなことが起きたのです。ネフィリムとの遭遇は「真面目に考えているとそういう事になる」と使徒行伝の最初に出て来る人物が言ったそうです。

 多くの人は時々このブログに現れる哲学者とは何の事か疑問を持ったことでしょうが、パウロのことです。ロバート・テーラーが主演したクオ・ヴァディスの古い映画を見たことのある人だけしか分らないでしょうが、それでいいと思っていました。パウロは長い間私の人生をウオッチしていたようで若い頃の赤面するようなプライバシーも知っているし、個人的な感じでは一見悪人ではなさそうなそぶりです。私のように直接話ができる人間はこれまでいなかったと言っていました。サタン=ナブー説をブログに書いている時「サタンはナブーか!」と驚いていました。法律用語で「原因において自由な行為」という言葉がありますが、彼もローマへの宣教を任務と思ってしたことで、前もってこのような結果になるよう意図して引き受けた訳ではなかったのか。「死んだらイエスや彼の仲間に会えると思った」が、あにはからんや現れ出たのは思いがけない動物たちで、パウロは同族に行動を縛られたのです。一人歩きしたパウロ教に対する神の反感は「パウロをメシヤとする国に神の子は下さない」と言われる程で、彼の宣教の結果齎された一部の国への影響(多分イギリスかブラジル)は重大だったのです。彼の正体を知らない今は彼をそんなに悪く言いたくない気もしますが、何もなかったかの如く黙過する訳には行かないでしょう。
パウロにとって慚愧の念に堪えない2000年だったようですが釈迦も同じで、バックアップする勢力が弱体化し仏教が正法の力を失い始めると釈迦族はインドゆかりのある動物霊に追い回されて逃げ切れず、それに乗っ取られた仏教は救済の道ではなくなった。釈迦は「二度と宗祖にならない」と臍を噛んだそうです。多少とも霊感のある僧侶なら何故こんな動物が寺に出て来るのか不思議に思う例は多いと聞きます。パウロもそれを知っていて奴らの賢さは決して侮れないと言っていました。

 欽定訳聖書を作らせたキング・ジェームスは人間だったがイギリス人はライオンと思ったようで、それが英国教会に暗影を投げかける原因となったのではないでしょうか。これまで日本人になった猿族が映画監督や文明批評家として立派な仕事をした例をこのブログに書きました。ヤマトの古代神話に猿田彦とよばれる神が登場し伊勢の五十鈴川と関係があるそうです。伊勢の外宮にYHWHが祀られているとの説があり、イザナギをイザヤと結び付けて日イ同祖論を敷衍すると猿田彦もユダヤの神かも知れません。このことが伊勢を崇拝する皇室にどんな影響を及ぼしているのでしょうか。私の耳には高松宮が「お前たちを恨む」と言い残したし、意味不明ですが「代々木にいるのは替え玉だ」との不吉な声が聞こえるのです。
猿はインドで神聖視されていますが、霊界で猿の発言権は大きく言い掛かりの名人なのだそうです。例えばキリスト教は一神教を建前としていながら祈りの後で「アーメン」と多神教の神に呼びかけます。アーメンの祈りはイエスの前のユダヤ教の名残、正教ではアミンです。ある動物は「キリスト教徒は我々のものだ」と主張して頑として譲らないそうです。霊界で実際にこんな縄張り争いがあることを知って、いずれの教会も真剣に現行を考え直さなければならないでしょう。前に理由は言わずに「賛美歌は止めろ」と言われていたのもこの事でした(註・この動物が何者かが分かるのは後に出て来る SF シリーズ以降です)。

 あるで女性霊が「我々のことを分かってくれる別の神がいる。そのために祈りの言葉を変えなければいけない」と私に訴えたのは、具体的には「アーメンは止めてくれということでした。彼女の言う別の神とはイクナトーンが立てた一神教の神アトンのことではないでしょうか。アトン神にはアンク十字架と呼ばれるシンボルがありますが、新教は十字を切る習慣を止めてしまいました。前項に書いた簡素な教会の問題でも述べた通り、何とプロテスタントがやったことは逆ばかりで、止めなければならないアーメンが続けられ、止めてはならない十字のサインを中止したのです。こんな事態になったのは何者かの強力なマインドコントロールが働いたような気さえします。彼らに「人間なんて馬鹿ばっかり」と言われているのです。公会議で聖書が改ざんされた例の一つにランダムなアーメンの挿入も考えられます。私が聖書改ざん説を支持していることからガバメントの関係者がオリジナルと現行の聖書を比較して、その結果「こんなことをやったのか」と慨嘆したそうです。霊界では時間軸を遡れば既にこの世では失われた文書が入手可能なようです。

 真の救済の宗教には神の子だけしか関与してはならないということで「汝自身を知れ」はここでも意味があります。善意からであっても(実際は意図的に神の子を装って)みだりに宗教のお先棒を担いだり、自己流の分派を作るのは考えてもいなかった脇道に逸れフォロアーが欺かれる危険性があります。

 アタリは“神々とはカニバリズムの勝利者である”と言っていますがまさかその中にイエスの父なる神を含んではいないでしょう。彼の言う神々は多神教の神々即ち悪魔または動物神で、勝利者というよりは人間を宗教によって振り分けた取り分の領有者と言うべきでしょう。そうした神々は援護者として、または権威者として巧みな教説(ほとんどは嘘ハッタリ)により人間を巧みに呼び集め、それに誘われた信者たちが主神とその手下たちの生贄になるのはインド神の例に見た通りです。悪人正機説が言う通り助かる可能性があるのは未開地の原住民や、レベルの低い人間界ではまともな役に立たなかった者たちだけです。何故なら多神教の本質は反文明・反進歩・反秩序・反人間だからです。

 我々は来世について深く考えず現世と同じようなものだろうと考えますが、この世と全く逆の世界です。唯一イエスの教えだけが人間にとって救いの宗教の可能性がありますが、イスラムにはその可能性があるでしょうか。その他の宗教を統括している悪魔も動物も人間にとっては先住者(Up-stream)で、失われたかつての世界が彼らにとって望ましい世界であり、人間 (Down-stream) は彼らの世界を破壊した仇敵です。だから仏教では大学卒や高い地位にいた者は絶対に助からないと言われますが、人間が教育受けることを嫌う宗教は同質と考えて間違いないでしょう。彼らはワールドワイドに皆共通の基準を持っています。

 然しキリスト教はみんなまともな救いの宗教かというと、これまで書いたようにどの宗派も敵に侵害され、歪曲されて付け込まれています。ロシア正教も英国国教会もキリスト教以前の宗教の同類ですし、カトリックはその歴史に消し去り難い暗部を抱えていますが、最近はフランシスコの指導の下にペンテコステとの和解や正教に対する謝罪等の噂があります。我々はバチカンから何時新しい変化がアナウンスされるのかと期待しているのですが、中々その兆しはありません。数多ある新教もどれが問題の本質を見据えている宗派か見定めがたい混迷状況にあるとしか考えられません。新大陸アメリカのキリスト教原理主義も旧約聖書を止揚しておらず聖書が黒い手に汚されたことを計算に入れないで、書いてあるままの文言に盲従しようとする危険を冒しています。宗教界は全般的にそうした悲観的な状況ですが、それでもすべて合否が逆転していた審判の評価基準が革命によって最近は真当な方向へ軌道修正されているようです。