これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
ギョーム・ポステルはカトリックにこだわり自分に与えられた業務に気付かなかった。はっきり言いましょう。彼の仕事はPOST-EL、脱ユダヤ神(YHWH)だった。
人間に生まれる程良いことはない。人間以外の霊が宿ることは数知れない。
騙されたらお終いだ。
「有名人でもないお前のブログを読む者は少ない。たとえ読んでも多くは風変わりな一個人の迷妄に過ぎないと思って真面目に取らないだろう。特に大学を出た者を信じさせるのは難しいだろう。それでも何人かは真剣に受け取って考え直し救われるものが増す可能性はあるから全くの無駄ではない」
聖書には108の重大な仕掛けが作り込まれている。
エジプトのハトホル神殿の壁画に人間がヘビを支える姿が刻まれている。
豚の皇子は江戸(穢土)が東京に変わった時「トンキンか、ガハハハ・・」と笑った。皇子の左右の座を仏教とカトリックが占める。今いる皇子は北○からメ○○○○○○イが連れて来た(こういう場合この男も悪魔である)。フランスの哲学者。浅田彰氏の分野。共産主義のシンパサイザー。不幸を拡大し他人の不幸現象を何も考えない輩で1961年没だから割と最近の話になる。この皇子は矢玉も跳ね返す。ローマ法王がへりくだってお願いし僅かに助かる者はカトリック信者に限られる。女は見捨てられる。後救われるのは馬鹿ばかり。だから天の国は歩行者天国になってしまった。イエスは「もうどうにもならない」と匙を投げているらしい。それで分かった。誰かが私にカトリックの教会を勧めたのは善意からだったのだ。それなのに、よせばいいのに私は本を読みカトリックを疑った。「救われる可能性は仏教もキリスト教も変わらない(低い)」と言われた言葉を真に受けてどの教えが正しいかを探したから。前項で書いた「ガバメントは皇子に仕えている」と言われたことが気になる(*これは嘘八百だ。彼女は騙されている)。所詮聖書に基くキリスト教はカトリックもプロテスタントも一緒くたか?ロシア正教はどうなのか?皇子が支配するのは仏教とキリスト教なら神道に可能性ありか?ガバメントはアラーの子になることを良しとしないのか?確かな手掛りのない何とも空しい詮索であるが選びの大切さは変わらない。
私が「人間にはどの宗教が本当のことを言い嘘を言っているが分からないから、もし審判が一つ(キリスト教も仏教も同じ者が裁く)になれば対立物統合と同じ」と書いたのを逆手に取られたとも、「ガバメントも自分が滅びないためには皇子に逆らえない」ともいう声がある(*多分これも嘘八百)。このように声は錯綜する。私の立場から釈明すれば、ガバメントの誕生は全く予想になかった。
エジプト神話のセト神は豚であるがそれと関係あるだろうか。ジョージ・オーウェル「動物農場」で豚は最も頭がいい役回りだが人間の哲学程ではあるまい(*否、むしろ頭が良くて超がめついのは豚さんにされる可能性がある。2017・05の時点の情報ではこの豚は大人しくなった。Why? 実に不思議)。
NHK BSで映画「コンスタンチン」の再放送を見た。天使ガブリエルが悪魔の一派に加担してルシファーの子マモンを密かに地上に導こうとする話。主人公ジョン・コンスタンチンが煙草を離さないのは煙草に魔よけの効力があるから。しかし吸い過ぎで肺を犯され余命を宣告されている。ルシファーが時間を止める映像が凄い。最後に自殺を試み死にかかったジョンをルシファーは運び去ろうとする。食うために。ジョンのような優れた霊能力者は類まれな蛋白質らしい。だがこのシチュエーションはネーミングに間違いがある。今は悪魔という言葉の定義に変化のきざしが見える。だから全部のいわゆる「悪魔」が動物霊と結託して人間狩りする訳ではない。悲鳴を上げる児童霊たち。三位一体の破綻。というより、三位一体なる理論を支えようとして霊を無理してでも送らなければならなかった。もともとそれが悲劇の始まりだったのか。教会よ勝手に信条を作る勿れ。ある大きな教会で神父が「聖霊を雨のように降らせて下さい」と祈るのを聞いた時祭壇に駆け寄って口を塞ぎたくなった。私の周りでも、働かされたり犠牲になる子供たちを「みんないい子だ」と言って憐れむ「悪魔」がいた。付言すれば、児童霊だからと言って実は決して幼い子供だとは限らない。仕分けの作業を解かれ、動物霊と付き合いきれなくなった元・悪魔は「グノーシスでも学ぶか」と修羅の現場を離れたらしい。その事と人類の功労者の栄誉を称える国「スエーデンでは警察に力があり悪魔は人間に頭を下げた」とはどう関係あるか?ルシファーとサタンの関係は?今まで私がサタンについて走り書きしたことの信憑性は?
ルネサンスがギリシャ・ローマの芸術文化を復興する運動だったことは何となく理解できるが宗教的な意味もあったのではないか。ダンテが「神曲」を書きポステルも時代の一翼を担った。ボニファティウス8世以来、ローマ教は権術を策し恣意に溺れ宗教の目的から乖離して正道を外れ、サボナローラがキリスト教の危機を訴えて焼き殺された。天秤(正義)と刀(力)の女神テミス崇拝による、悪魔と動物霊が支配する審判からの回復である。裁きに不満な者は反抗するから力がなければ正義は成り立たない。裁きは美醜や肉体的魅力や審判者の個人的血族関係や好みに左右されてはならない。テミスが目隠しする理由であろう。Wikipediaに「正義の女神は娼婦」なる奇妙な解釈が載っている。そんな馬鹿なと言いたいが、イスラム教では英雄は褒美に天の処女を抱ける、女は何度でも処女に還ると教えるそうである。ダビンチはモナリザ教を企んでいたのかも知れない。
水辺の国はお声が掛ると父親が娘に「申し訳ないが行ってくれ」と別れを告げる場所。各地の昔話にそんな説話がある。そこを訪ねた時私が中学時代に熱くなった先生はいなかった。彼女は「お前は好色な女」と裁きを後回しにはされなかったらしいが、私には解せない。異性に敏感に反応する面があるとしても実際に不倫する方ではなかったと思う。過ちを犯さない倫理観も持ち、現実に何を為すべきか為さざるべきかを弁えた方だったと思う。ある高名な心理学者が常識問題で平行四辺形の面積の求め方を答えられなくて落されたというが、彼女はもと数学の先生でそんなテストは全然問題なかっただろう。ひと月ほど前私の仲間たちが水辺の国へのルートを辿り、私とのいきさつを話して彼女を連れて帰りたいと願い出た。既に白い煙のような空体しか残っていなかったが、それでもいいからと連れ帰って来た。彼女は甦りの神社に連れて行かれ、つい最近人の形に戻った彼女の夢を間近に見た。まだ完全とは言えなかったが昔の彼女の面影が浮かんでいた。今まで仄めかすだけだったが私にもその力がある。いくつかエピソードがあるが外国から来てくれと言われるのはそのせいであろう。
今は British/Irish 系の教会の日曜ミサに出ている。昔こことは違う同系統の(さる埼玉にある大学付属の)教会で私が「イエスの父なる神はモーセの神 YHWH ではない」と言って否定された。この教会にも自分を「身も心も生きたまま奉げます」という祈りの言葉があるのが自殺志願のようで恐ろしい。「憐れみ深い神」の憐れみに全面的に縋って自助努力の重要性の認識が抜けている。「ダビデの子キリスト」を讃える賛美歌もある。別に他派と変わらないキリスト教の慣行通りであるがそれが矛盾だらけで、ミサ参加者の誰もがアーメンとエジプトの神に祈りイエスの父なる神にはそっぽを向くことに気付かない。ジッドの田園交響楽は牧師の話で「盲人が人を導けば二人とも穴に落ちる」がテーマだった。牧師は聖書の言をもっともっと掘り下げなければならない。このパラグラフの最後にマタイ福音書のことが出て来るので注目されたい。
ある週のミサで眼を閉じて説教を聞いていると私の周りにカップ麺が一杯並べてあるのが見えた。私の放射するエーテルが食べ物に効果を及ぼすのだろう。数日前見た夢で中越典子に似た若い女性が、わずかに体を覆う衣類を着た裸体で横向きに仰臥し私の方を見ていた。そばに若い男がいて同じくこちらを見ていた。また例の卑猥な図かと横を向いたが別の意味があった。彼女はこんなに身体が良くなったと今の姿を見せたのだった。あの教会にいたのだろう。ヒントはそばにいた男で時々ミサに来る若者そっくりだった。まだ少し皮膚表面に打ち身のような斑が残っていた。
子供の頃は田んぼや小川にたくさんヒルがいてよくやられた。私の血を吸ったあるヒルから美女が蘇ったこともあったらしい。「人生は遊びではない」で書いた美女も私に関する話である。尚、私が訪ねてから水辺の国には明かりが灯ったそうである。仏教徒だった頃私は自分で復活させた霊に祟られたらしいが、何をか言わんや。甦っても霊の根性は不変か。私の事をアスクレピオスの生まれ変わりと言う声がある。ちなみに父の名前はセンタロウでケンタウロスに似ている。父は不思議な人で雷を異常に怖がり星座に詳しかった。父にアンターレスとかカシオペアとか言われてもどの星か特定するのが難しく、私はすぐに星探しにやる気をなくした。
宗教にはトポロジーと呼ばれる地域差がある。何処がどんなことをしているかはお互いによく知らない仕組みなのだろうか。江戸を豚の皇子が席巻出来たのは江戸がクラバック(エッサイム)の領域だったからではないだろうか。既存の秩序を覆すにはその地域の人間の宗教的背景が大きく変わらなければならない。キリスト教は大阪や京都では既に出来上がった力関係を変える程のものではなかったし、看板は違ってもキリスト教も仏教も代り映えのしないものであるなら人間にとっては同じ運命である。大阪のキリスト教が東京のそれ程ひどいものではなかったという違いはあるかも知れない。かつて甲子園ではキリスト教徒が目の敵にされた例を書いた。一宮と呼ばれる神社も総じて悪神の支配なのだろう。東北のある県が一番良い場所だと言われているが人に言えることだろうか。また死に場所を求めてそこに行くことが人間の生き方として妥当かどうか。古地図によれば北海道は日本の土地ではないので本土とは違った宗教地帯だったのだろうが、それが良い事か悪い事かは分からない。明治以降は本土と同じになったと考えられるがロシア正教の影響力は濃いのではないだろうか。天皇は人間なので我々と同じ考えと信じたい。伝統の祝詞を上げるだけでなく人間の願いを謳う祈りを唱えて欲しい。宗教改革の動きがある。どれだけデモンストレーションしたかは判らないがガバメントが出来たことは画期的である。この動きは日本だけではない。旧態を変えることは想像を超える難しさだと思うがインドでもイタリアでも戦いが行われている。ローマ教がかなり変わったと言う声があるが基本的にカトリックは現状維持だと思う。
子供の頃何かに気付いて興味を覚え、次の日曜日に図書館に行って調べてみようと思った。何か知っておくべき重要なことだと感じた。然しいざ日曜日になると全然その気にならない。それがどうしたの、と言う感じ。私に後ろから働きかけるものが曜日によって変わるのに違いないと、霊の入れ替わりを感じた最初だった。木曜日は悪魔の日だと本に書いてあるが今はどうだか分からない。クリルタイとはモンゴルの政治的な機関だと歴史で習ったが、この言葉が聞こえた時私の評価や意志決定に関係する霊のグループのことだとすぐに閃いた。何度も同じ事を言うが法華教からカトリックに変わってもクリルタイは変らなかった。
NHKのプロファイラーという番組でスターリンをやっていた。彼の読書量も凄かったらしい。マルクスもヒトラーも同様。猛烈な読書が生み出す現実離れした理念の世界。どれも敵を策定しCo-existenceを強烈に否定する。革命が王政やブルジョアジーを打倒したあとスターリンは仲間を次々と粛清しあのヒトラーにさえ奴らは病気だと言われた。この三人の中に我々が再登場を歓迎する者がいるだろうか。ユダヤ教も共産主義も仏教もカトリックも血の池地獄。聖書をありのまま字句通り受け入れる考え方の新教も例外ではないだろう。
ヒトラーが戦争を正当化したのは再度挑戦し勝てば絶対的に勝者の言い分が通るからである。ベルサイユ体制を御破算にすることが出来る。彼が何を読み(註*1)その思考回路がどうだったか、あるいは自身が体験した見聞がどうだったかは知らないが最もショックを受けたのがユダヤ教の秘密を知ったことではないか。そんなことに手を出さない方がむしろ手間が省けて戦争に集中出来た筈なのにユダヤ人問題の最終的解決に邁進した。ユダヤとの共存を拒否するのがヒトラーのテーマだったのだろう。彼一人の考えではなくコンセンサスがあったに違いない。自民族の優秀を主張するのも何かの根拠があったのだろうが単に比較の問題で、では一位が二位、三位、四位を同時に相手にして勝てるかと言えば全然無理な話である。単純に考えて勝つためには二位、三位、四位の合計を上回らなければならない。条約を結んだり一方的に反故にしたりして出来るだけバッティングを避けたのだろうがそんなことをして信用される訳がない。「HHhH」を読んでイギリス人の現実主義に共感した。大陸法より英米法か。
共産主義の信奉者スターリン、毛沢東、ポルポトが自国民を何人殺したか。計画経済の非現実性がウクライナに、中国にどれ程の犠牲者を生んだか。平等や科学的進歩の理念がいくら良くても自分たちの属する死後の世界を形作るのは実際に何をやったかである。「あなたの支持する共産主義がどんなものか行って見てみろ」と、霊が私に実見を勧める。イギリスでは労働党のスローガンは「革命なき革命」だったと開高健は言う。(ちくま文庫「動物農場」P148)
「動物農場」は朱牟田夏雄がラジオ番組で放送したのを聞いて興味を覚えた。開高健は「教科書になると中身が薄められる」と昔の知者の言を引いて否定的に言うが私はそうは思わない。読者がマニア以外にも広がったことは事実だろうが中には何かを掴んだ者もいて関心を持つ機会を与えた可能性があるのを軽視出来ない。今回上に書いた本を読んで、武田泰淳の言う「製作した当人がそのおどろおどろしい形相に顔をしかめずにはゐられぬ鬼子が知らず知らず生み落されてしまった」(P252)のはまさに私自身のことで私は豚の皇子と遭遇した。作中で雌牛が「われらが指導者にして同志ナポレオンのおかげでこの水は何ておいしいのでしょう」、めんどりが「われらが指導者ナポレオンのおかげで私は六日間に五個卵を産みました」と英雄を讃えるセリフはどこかで聞いたことがある。しかし私が「動物農場」を読み終えて感じたのはこれは宗教を譬えた物語で、最後にカードゲームで争う人間が豚になったり豚が人間になったりする描写は豚の皇子そのものではないかと思った。そのゲームがポーカーだというのも洒落がきつい。変貌するプレーヤーの怒鳴りあう姿を窓から覗いて驚く動物達の表情が目に浮かぶようである。言わぬが花かも知れないがモーゼという名のカラスが砂糖がいっぱいの理想郷を語るのは旧約聖書にある乳と密の川が流れる理想郷と同じである。生き急いだ開高健は死んでどう思っただろうか。自分自身のこと、つまり酒についても食についても女についても。
オーウェルの「1984(未読)」の解説で「権力を行使したい情念の本質はまず自然または自然なるいっさいのものへの反逆であり挑戦である」(P268)と書いてあるのは権力者が国民の性欲をコントロールする事に関する記述であるがこれは土台不可能である。「自然なるものいっさい」とは穀物の種蒔き・生育・収穫、同様に果実も家畜も年毎の気候も含む。計画経済も大躍進も失敗した。ウインストンとオブライエンの査問の問答(P268)は神とヒトラーの会話を想像させるが、ヒトラーは4番目の問に対してだけは「ノー」と答えただろう。巻末の論考に引用された本は皆面白そうだが正直に言って私はほとんど読んでいない。だから偉そうなことは言えないが、開高健の文章には聖書からの引用は絶無に近い(註*2)。
開高健には酒を酌み交わしつつ耳を傾ける在日中国人の知人がいた。文化大革命で葬られた老舎がまだ公に権威を持って日本に来た時、その通訳をした知人の質問に対して老舎が重い口を開いて答えるエピソードが凄い。革命後の中国がどうなったかという問いには直接答えず、老舎は重慶かどこかの民族料理店で牛の肉も豚の頭も野菜も大鍋に放り込んで50年も100年も火を絶やさず骨が溶けるまで煮込む料理とそれを食べる客の姿を長々と語り、語り終えるとふっと出て行ってしまったという。中国は中国、何も本質は変わらないという事か。共産国同志で中ソ対立が激しかった頃、ロシアは中国がどんな国か(正直か嘘吐きか)身に沁みて分かっただろう。最近の深圳の住宅崩落事故。似て非なるものを造っても悲劇が起きるだけである。中国の霊的世界がどんな様かは死後知ってもらうほかはない。エジプトは動物霊で躓き、ギリシャは酒で躓いたがインドと中国は今も変わらずある。私が中国に行く気が起きない事に対し「お前は心が狭い」と言う者がいる。韓国は歴史的に陸続きの中国の怖さを身に沁みて知っているのだろう。
これまで元人間の女の霊について書いたことを再録すると、ヒルになったり、何百年も土中にうめられたり、ゴミ捨て場に捨てられたり、食われて空体になったりしたらしい。30代の後半に買った家は東武線の沿線にあり毎日の通勤電車には東武動物公園の宣伝ポスターが掛っていた。その中にシタツンガというアフリカ原産の鹿の可愛いらしい写真があって目を引いたことがある。その印象がまだ残っている頃、少女の霊が「私はシタツンガになりたい」と意思表示しているのが聞こえた。当時私は人間の声で喋る霊は人間になるのだと単純に考えていたので驚いた。彼女には母親らしい霊がいて、「鹿は特別な動物で女にとって鹿になるのは恵まれたケースだ」と言った。また男の霊が猿になったり犬になったりヤギになった事例についても書いた。もちろん半信半疑だがそれらの人それぞれの顔が目に浮かぶ。この夏感じたのは、何処からともなく血を吸いに来る蚊にも人間のような霊が付いているらしい事である。ただし人間の姿形をしているが影が薄く蜥蜴や蛇のような細くて二又に分かれたチロチロと動く舌をしていた。そういう具合に蛇やムカデにもされるのだろう。さかんに五木の子守歌を歌う声が聞こえた。「あん人たちは良か衆」と人間への羨望を籠めて五木の子守歌を歌うのは彼らだろうか。
この世の豚そのものの脳は小さく人間より賢いとは思えないが、霊界の豚はもと人間が貪欲で旺盛な食癖・過度に好色な振る舞い・がめつい生き方等の特徴によって豚にされたもので、生前は欲望を十分に満足させるに足る優秀な知能レベルの持ち主だったかも知れない。さらに、ガマガエルにされ醜い姿になったことを恨み50万人を食ったニキスマと呼ばれる怪物がいるらしい。おそらく死んだ時にその姿になっていたのだろう。私を奸計で法華に入れ、死んだら連れて来いと命じているそうである。生前は権力を握り、ほしいままに奢って黒を白と言いくるめる力を揮ったのだろう。王様レベルの私欲を肥やし淫楽にふけったが、それを成し遂げるだけの知力もあったに違いない。正体は知らないがユダヤが匂う。脱ユダヤ神の教えを立ち上げるべきポステルはむしろユダヤをあらゆるものの始原として権威付けお先棒を担いでしまった。霊界を支配している勢力に加担している少女たちは巧みな言葉で人をたぶらかす(註*3)。騙しのスピーチコンテストまであるらしい。私の最初のパソコンVAIOのブラウン管を古いと笑ったのは多分ユダヤの少女でそのうちの一人だった。既述の通り特殊な力で無意識に霊界に貢献していた私に対して、それまで仏教を中心とするクリルタイは色々あっても努力を認めて高い点を付けていたらしいが、彼女はバックの力を後ろ盾に評価を覆させた。客観的レポートと呼ばれる第三者(クリルタイ以外)の Appraisal Reportで私を酷評した。
マタイ5章27~30にイエスが言ったとされる次のような姦淫についての教えがある。誰にでも内在する性欲が問題になる。
27.『姦淫するな』と言われていたことはあなたがたの聞いているところである。
28.しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(女を見て心の中で全く情欲を抱かなかった者だけが姦淫の罪を犯さなかった。)
29.もしあなたの右の目が罪を犯させるならそれを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても全身が地獄に投げ入れられない方があなたにとって益である。(あなたは女を見て情欲を抱いたが、その罪を犯すもとである右の目を抜き出して捨てよという教えを守らなかった。罰としてあなたは地獄に投げ入れられる。)
30.もしあなたの右の手が罪を犯させるならそれを切って捨てなさい。五体の一部を失っても全身が地獄に落ち込まない方があなたにとって益である。(あなたは女に情欲を抱いた時自分の右の手で何をしたか。右の手が罪を犯さないようあなたはそれを切って捨てなければならなかったがそうしなかった。その罰としてあなたは地獄に投げ入れられる。)あなたがいつ誰に情欲を抱いたかはすべて記録されており、あなたが情欲を抱いて右の手でしたこと(セルフサービスだろう)もすべて記録されているからあなたは反言出来ない。あなたが信仰する聖書によりあなたは地獄で釜ゆでにされて当然なのだ。
このトリックに絶望的な怒りを覚えない者がいるなら人間ではない。聖書に悪魔はいても神はいないと思わせる。この理屈でこれまで何億人が地獄に落されたことか。私にもこの手口が使われたのだろう。
既に「変身譚」に書いたマタイ6章17,18の猫の話は決して単なる作り話等ではなく数多の実害があったのは確かである。すべての罪は人間に着せ、命を奪い、財産もすべて召し上げる算段なのである。(註*4)
後記
(註*1)ヒトラーはシオン賢人議定書も読んだといわれる。
(註*2)「あらゆる戦争は宗教戦争である」という説を紹介している。
(註*3)他方私に何とか協力して間違っていない情報を与えようとする者もいる。外国から来る少女たちはそのために相当の危険を冒している、誤解しないで欲しいと言う。
(註*4)どうやらマタイ5章・6章とは、いかに悪魔が意地悪くイエスの言葉を歪曲して流用し、まことしやかに勝手な理屈で人間を引きずり下ろし破滅させようとするか、マタイが悪魔のやり口の見本を示したものらしい。