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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

燃え上がる緑の木 (大江健三郎)

臨死体験したオーバーに「いま迎えようとしている死が大きい循環のひとコマの実現か単に命の終わり・消滅か」を聞きたがる主人公ギー兄さんが救い主としての予備知識を備えそう呼ばれる資格があるとはとても思えない。行き倒れを助けたサマリア人のように心優しく、ヒーラーとしてのささやかな潜在力はあるとしても。

First Miracle と呼ばれるカナの婚礼で、母マリアがイエスに「ぶどう酒が足りない」と話し掛けると「婦人よ、そんな事私の関知したことじゃありません」とイエスはすげない返事をするが、結局奇跡的に酒は十分に満たされる。病者の治療に当ってもしばしばイエスは「他人に口外するな」と口止めしてその事で評判が立つことを憚る態度を示す。自分自身が奇跡を行う者であることは二の次なのである。他方弟子の一人が「あなたの名前を使って悪霊を追い出している者がいたので勝手なことはするなと叱りました」と報告すると「なぜ止めさせたのか、禁じてはならない」と、他人が自分の名前を悪霊に対して働かせることを奨励する。それこそイエスの(特に死後の)信者たちに与えられる恵みそのものなのだから。

主の祈りはカトリックでも新教でもミサで必ず唱えられる。イエス自身が語ったとされるその祈りは最後のフレーズに「私達を誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい(And lead us not into temptations, but deliver us from the evil one.)」と悪からの救いが示されている。これを和約文が与えるイメージ通り「神の助けによって誘惑を避け罪深い行いを回避したいと願う倫理的な願い」と解釈するだけではイエスの意図を把握していない。その程度の願いは何も神に頼らなくても堅固な自覚的意思を保持せんとする努力次第で達成出来ることである。そうでなくて、神の救いなしには助からない命の問題がある。

そもそも聖書で人間はなぜ羊に例えられ、なぜイエスは「わたしは自分の羊を守るために命も捨てる良き牧者」と言ったか。

イエスが荒野で悪魔の魅力的な誘惑に乗らなかったのは悪魔の真の意図を見抜いていたからである。ヨハネ第8章44の「あなたがた(旧約指導層)はあなたがたの父である悪魔から出た者たちであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔ははじめから人殺しである」で言う人殺しの欲望とは何か。

“神の天使の一員であり超越的な知性と地位を持って”おり“民数記やヨブ記では神の従順な従僕のひとりであり神の使者すなわち天使(エンジェル)であり”、“しばしば「神の息子たち」と呼ばれ巨大な軍団もしくは宮廷として描かれる”(以上すべてエレーヌ・ペイゲルス「悪魔の歴史」75頁より)神の敵対者・悪魔について、新約聖書は明示を憚り及び腰であるが、“神の息子たちまたは天使の子孫は人間達を貪り食った”(同書90頁)とある通り、この殺人者の欲望とは人間を食うことである。

悪魔に食われるものは二度死ぬ。これを遁れなければ永遠の命はない。そんな人間を憐れみ救いのルートを敷いたのがイエスである。この救いは神の助けなくして出来ることではない。燃え上がる緑の木の教会に神がいないなら、そんな教会は教会ごっこに過ぎないと言われても仕方ない。主人公は最後に石打の刑のような死に方をするが、「私の霊を御手にゆだねます」と叫ぶ父はいない。「私は道であり命であり真理である」でこれらが簡潔にまとめて言い表され、嘘つきの悪魔とは違って私は真理を語り私の言葉を単なる例え話だと軽視するものは痛切に後悔するだろうとの警告を含んでいる。

そもそも元来この地上は追放された神の子たちのためのファームだったのではないかという確度の高い推論が成り立つ。人間はこの世の食物連鎖の頂上に立っているとされるが実は更にその上があって、各々の霊的身体は大多数が死後悪魔の餌食になる運命であることを認識しないでいる。イエスの誕生と復活を見れば分かるように、人間は肉体的に赤子から成人へと成長すると共に霊的にも幼児から大人になる。アーマンは形ある地上のあらゆる物には霊的な等価物があると言うが、食物は霊的な物質も含んでいる。他の生物と同じく人間がそれ自身で給餌活動して成長し繁殖することも、捕食するために所有権を主張する者にとって好都合である。

聖書で「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」と宴会の譬えにあるように限られた少数のキリスト教徒のみが最終的救済に与り、その狭き門を通れない大多数の死者は煉獄にとどまるか地獄に落ちるが、煉獄とは旧約や仏教にはなかった中間的な世界で「一切の望みを絶て」と書かれた地獄門に送り込まれるのに比べればまだ希望がある。仏教が日本に伝わった552年はキリスト教が初期の苦難を乗り越えてローマで国教となった392年の1世紀半あとである。ダンテが通ったイタリアの煉獄の住民はキリスト教以後悪魔の犠牲になることを遁れた人間達であり、キリスト教の拡張に伴って悪魔のファームが大幅に制約されたこととこの国への仏教伝来とは関係ありと言えないだろうか。彼らが天界で敗者となったからといって地上でも敗者扱いするのは認識が甘すぎる。悪魔は国際的なネットワークと組織を持つとされる。私はゴルカルやべリアルやゴドブザデという名を耳にすることがある。すべての悪の中で、静かな制度化された悪が最悪である(JBラッセル)。慈悲・救済の理念と如来・菩薩の偶像を看板にして正法の権能の下に出発した仏教は、じつは巧妙にひそかにそして回復し難いまでに悪魔に取り込まれ侵犯され同化していることに人々は気付かない。一元論者が「我々は正しい、西洋二元論は行き詰っている」と自己陶酔している間に。イエスに先立つ時代、隣国との抗争に明け暮れるユダヤが強力な助っ人として迎えた、知力でも戦闘能力でも優れた悪魔が転生してユダヤ教の指導層を占め、やがてユダヤ教が悪魔の温床となる状況に陥っていたのかも知れない。山上の垂訓は裕福な上部構造である彼らをイエスが救いの対象から除外したことを意味している。或いはヤハウェ自身が堕天使の一人かも知れない。イエスは永遠のいのちを説き旧約の神は人間の命を120年(恐らく死後も含めて)と定めたが、両者には矛盾対立がある。

JBラッセルは「新約聖書の悪魔は冗談ではない。軽視されてはいないし象徴的存在にすぎないのでもない。新約聖書の末梢部分では決してない。キリストの救済の使命は悪魔の力に対抗するものという観点から見なくては理解できない。これが新約聖書の眼目のすべてである。」と述べている。炯眼である。 悪にはそれを体現し実行しその影響の源となる、見えないが大きな存在がある。人間の中に善悪両方のベクトルがあることはその次の問題である。

語り手のサッチャンはアウグスティヌスを携えて伊豆のコテージに逗留するが、アウグスティヌス並びにトマス・アキナス、プロティノスの「悪とは善の欠乏である」なんて全く的外れな議論である。たとえば匿名性の陰にかくれて強迫の電子メールを送ったり感染性のウイルスをばらまくネット犯罪者の行為にはあまりにも積極的な悪意とずるさがある。

私は両性具有をテーマ(もしくはサブテーマ)にした作品をほかに知らない。しかもここではそれが語り手自身であるために、読者はことこまかく異常な性的交渉の仔細を辿ることになる。第一巻を読んだだけで、もう止めようかと思った。赤目滝の話やカトリック養護施設の暴力とセックスの話を読んで「この作者はこの一作が最初で最後」にしたように。ところが巻末の主人公が糾弾される場面で墓から掘り出したオーバーの遺体がタイミングよく池に浮ぶ展開に、誰がどのようにしてそんなことを仕組んだか俄然興味を惹かれて続きを求めた。然し結局その顛末は語られず仕舞いだった。Sという作家がよく使う手法で彼の作品ももう読まないことにしている。P・オースターやI・マキューアンやM・アトウッドの新約がでると、嬉々として読みたくなるのだが。私は仏文系の辻氏や加賀氏を敬愛し、今まで読んだ中のベストスリー(チボー家の人々、ジャン・クリストフ、カラマゾフの兄弟)のうち二作までがフランス文学である。作家は様々な発想を取捨選択してプロットを考え作品を作り上げるのだろうが、性器の外形が遺伝子の誤作動によって男女両方の性的機能を具えるように例外的に出来あがることは事実まれにあるとしても、更に一個の肉体に造精と造卵の機能を一緒に内蔵すること、まして懐妊することが可能なのかは不可思議で、その素人の医学的疑問の答えはどちらでもいいとしてもこのような特殊な身体の持主の風変わりな性行為の遍歴を文章にして紙の上に定着させ不特定多数の人々をして読ましむることに一体どのような目的があるのだろうかと訝る。上に引用した直木賞・芥川賞の二作でも強く感じたことである。オリゲネスによれば「神への愛をめざさない行為は真の目的を欠く。無目的性が罪の特徴である。すなわち罪とは我々を実体からどんどん遠ざける愚かな行動である。」

イエーツについて何も知らない私がこのようなことを書くのは身の程知らずだと重々承知の上だが、肉体の死にあたって魂が後悔するのは「性」だと思う。なぜなら死後の審判の場で、我々は表向きの公的な自分(昼)と私的な自分(夜)の二律背反を徹底的に暴かれる。我々の弱みは全部握られている。男と女の二人だけの了解事項だと安心していたのがいかに甘かったかを痛切に思い知らされる。我々は性についてギルティーに感じるようにマインドセットされているので、たじろぎ、自信喪失し、敗北する。アダムとイブの楽園追放が、食と性の欲望によって魂が罪に落とされることの譬えであるように。

性について許容されるハードルがいかに高いことか。アウグスティヌス、フランチェスコ、クザーヌス、ペトラルカ等、宗教心に目覚めた鋭敏な感覚の持主は皆このことを生きているうちに知って後悔し、オリゲネスに至っては断種した。ルターも親鸞も悩んだが彼らは別の道を選んだ。追求は一人だけの行為は勿論、考えたこと、つぶやいたこと、見たこと、たまたま接触したこと、どこかに行ったことすべてに及ぶ。私の後ろに敵対的な誰かがいてそうした記憶の紐をひっぱると、しばしば私は歩道で立ち止まり、飲み差しのコーヒーカップをとどめ、読みかけの新聞から目を離す。我々は異性を相対的なものだと高を括っていた。自分が右ならあちらは左、自分が東ならあちらは西だと言う風に。場合によっては、自分の形はあちらの形をしていたかも知れないとさえ思う。然し自分のappraisalとその理由を知るに及んで、男性にとって女性の下着の奥は、いかに忘念すべき、否定すべき、厭離すべき、拒絶すべき、更には嫌悪さえすべきものであったかを悟るだろう。水場を求める家畜のように我々がリビドーに餓え乾く時、優しい女は許容し、場合によっては相手も求めて交歓の喜びを分かち合うかも知れない。然し家畜の求める水は命に関わるが、それと同じ程度に性の求めと喜びが正当化されることは決してないだろう。

主人公の父親である総領事氏はあまた登場するインテリ達の中でも抜きんでた知性と識見を具え幅広い経験を積んだ人物として物語に厚みを加える存在である。外国で彼がある教会の実際のミサを見学していて、式の流れが列席者同志で挨拶を交わすという場面で自分は単なる参観者にすぎないからそのようなまね事はしないと横を向くシーンがある。異教徒が形だけ信者らしく振舞うのは浅墓なことだと思うのは必ずしもかたくななだけではない。彼には先祖伝来の仏教徒として身に付いた習慣とプライドがある。故国の仏教には高邁な哲学と万巻の書があり、大学の講座があり尊敬された学者や僧侶もおり、重ねた歴史の中で生まれた建築や芸術には国宝や重文はおろか世界遺産さえある。

それらが壮大な仕掛けであったことを死んだ総領事も初めて気付いただろう。モデルとなる人物が実際にいたのかどうか知らないが、あくまでフィクションとして想像を語ることを許して頂きたい。彼も死後の審判を受けた点で例外ではありえなかったろう。彼の経歴とプライドに対して、仏教の使いの者がよく口にする「得意がっている」という冷笑が浴びせられたことは100パーセント間違いない。むこうには彼程度の知的レベルの者はいくらでもいる。性と食に関するデータが示され厳しい尋問があり、行いについての証人がぞろぞろと呼ばれ、その中に別れた妻の分身がいて不利な証言をしただろう。悪魔が検事と判事を直接・間接に演じるのを驚きをもって見ただろう。生前の縁で結ばれた仲間や恩儀のあった者たちが彼の功績などの有利な証言をしたがその効果の程は覚束なく、群れの中に暗澹とした憂い顔の童子も見出しただろう。審判は「諦めろ、諦めろ」のフレーズで終結した。そしておしなべて彼のような人物が漏らす後悔の言葉を彼も呟いただろう、「インテリ振りすぎた」と。

三界火宅の比喩は何が差し迫った危機なのか教えてくれない。もともと仏教はキリスト教と違って沙門と呼ばれる修行者が戒と律を守って肉食や女色を絶ち、厳しい求道にはげむことをもって真理に至り救いに与ることを前提としている。大乗なんて願望にすぎない。救済の道は前世での達成度もふくめて人それぞれであり、他国には様々な往生の具体例を記録した大蔵経があるが日本独自の大蔵経はない。

私に対して「助かりたければすぐに得度しなさい」と言う者もいるし、「乞食は食われない」と教えてくれる者もいる。残飯をあさるような暮らしをした人間は不味くて食えないのだろうか。

仏教には餓鬼と呼ばれる落第生のような少年たちのグループがあり主として汚れ仕事を担当し時にはむごい仕事をやらされたりする。

アサとイノという兄弟のように仲の良い二人の少年がいた。ウトは正直な少年でよく働き仲間内の評判も良かった。ある時上司がアサを呼んで、ウトを殺せ、従わなければ罰として代わりにイノを殺す、と告げる。ウトは時々言うことをきかない、むごい仕事は命令系統が違うといって拒絶する、と。アサが「そんなことは出来ません」と断ると、上司はイノを殺し「お前は友達を救えたのに見捨てたむごい奴だ」とアサをなじる。もしアサが友を救いたい余りにウトを殺すと、上司は「おれはお前を試すために冗談を言ったのだ。冗談を真に受けるなんておまえは何と浅慮で残酷な奴だ」とアサをなじる。

これは私が作った例え話だが、餓鬼道にいる彼らの置かれた状況をそれなりに著わしているだろう。

ある晩、何故かどことなく私に似ている少年が夢に出て来て、「いまexile中だ、体力のある間は逃げ回るが長くは続かないだろう。人間の認識が変わってくれないと我々の立場は良くならない」とうなだれて憂い顔で言った。数日後、火を燃やした跡に黒い灰と焼けた土があるのが見えた。「燃やされたからもう助からないだろう」という声が聞こえた。