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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

ネフィリム

 中学生の頃たった一度だけ読んで記憶の底に残っていた短い手塚漫画を思い出します。登場するのは犬や猫や家畜など我々が身近に接する動物たち。それぞれの顔形は個々の動物のものなので何の動物かは判りますが人間と同じ服を着て二足歩行しています。確か鳥類は出て来なかったと記憶します。最初彼らは同じ共同体で仲良く暮らしていたのですが、次第に競争心が芽生えやがて争いが発生します。争いは次第にエスカレートし最後に動物がグループごとに対立し抗争が抜き差しならぬ状況に至った時、彼らは自分たちがみんなもとの四本足に戻っていることを知って愕然とし、その原因が「欲望」にあったことを発見します。
この漫画は霊界の様を巧みに捉えています。もともと人間の数は多過ぎて「人の子」だけでは足りなかった。足りない分は動物霊が人間になり、人間として一生を送ることになった。これは動物にとって恵みであり生き方によってはプロモーションするチャンスでもあった。然し飲食や性や金や権力の欲望が渦巻き万人の万人に対する闘争である人間社会を通過した結果、デモーションの例は枚挙に暇がないにしてもプロモーションや仏教で目標とする成仏に至る例は今日皆無に近いと言えるでしょう。人間社会の論理では問題を起こす訳でもなく平均的に過ごした者、或いは能力を発揮する機会に恵まれ人より上に立った者も、人間と同じ肢体を持ちながら人間になる以前と同じ動物の顔をした死後霊となるのが大多数です。中には明らかに悪相で一見してそれと分かる悪魔もいるでしょう。顔だけは変えられないと言います。まれに死んだばかりの人間が見たこともないような動物の顔をしていることもあるそうです。ただし彼らがいつまでもそのまま二本足でいられるとは考えられません。霊界でしばしば生き血を吸う者の存在が語られますが、西洋の伝説で吸血鬼が吸血によって命と姿形を保ち続ける秘密と関係がありそうです。11項に挙げた仏教関係の名前の主はこの類らしい。この漫画とは逆にエジプトのスフィンクスやペルガモン博物館の人面四足獣のように顔は人間で身体は獣の姿をした造形もあり、これらは「人の子」であったが神への信仰を忘れたために四足獣に落されたものたちの姿であって、信仰の対象というよりは神罰の厳しさを表していると考えられます。
我々が夢を通して霊界を見る時動物の顔をした人間を見ることはほとんどありません。それは彼らが普段お面を被っているからです。お面は巧妙に作られているのでしょうが、明らかにお面と分かる銀箔で出来た仏像の顔をした少年を見たことがあります。

 忘却は誰も遁れることの出来ない罠です。人間になる時「帰って来るなよ」と言って見送られ、毛の生えた姿には再び戻りたくないと思ったのに、その記憶を堅く自覚して初心を貫いた者などいなかったでしょうし、「人の子」は「無事帰って来いよ」と言って見送られたにも拘わらず、世俗の垢に塗れて元の姿を損なうか、人間になったら自分自身が熟慮して再選択するつもりだった宗教に束縛されて命運を断たれる。根無し草は流れに身をまかせるまま浮き沈みしているだけ、我に返ってスタートラインに立ち戻り「罪びとを憐れんで下さい」と祈る人の姿はどこに見つけようもありません。

 革命に当たって「ユダヤが世界を転覆させている、彼らがこんな事をしている限り天に恵みはない」と言われていました。“天に恵みがない”とは天の権威が失われること、計画が達成されないこと、「人の子」の無事な帰還は叶わないこと等を意味すると思われます。天使ケルブが犬であったようにユダヤ教の神も面妖な動物なのです。偶像崇拝を禁じたのは人の顔をした神像を作って尊崇してもそれが彼らの神を拝むことにならなかったからでしょうし、そうは言っても本当の姿の像を作ったのでは「お前たちは何たる神を信仰しているのだ」と他民族に怪しまれることになります。この動物は殊の外悪魔に愛されたのでした。

 旧約に「人の子」の概念はなくユダヤ教は天への道を想定しない反人間の仕組みと考えられます。ユダヤ教と仏教は似ています。人類共通の原罪とは仏教で言う宿悪を指し、過去に過ちを犯して畜生道に堕ちた者がこの世に転生して人間になったと考えるのが前提です。イエスの言う「人の子」は旧約や経典のカテゴリーに属さないで存在し、本来その任務は性格の激しい動物たちの争いの調停役だったのですが、悪魔たちは「人の子」に味を占め特別扱いしなかった。「人の子」たちはたとえ天の律法に忠実な生き方をしても宗教が勝手に作ったお手盛りの罰則で帰還の道を阻止され「貧乏人は叩き殺せ」と餌食になるか、生き延びるためにはユダヤ教の主に仕える他なかった。
53項・モーセ」で“タイトルに名前が出ている旧約の作者のほとんどが寝返って悪魔の側についた”と書いたことにエレミヤからクレームがあったようです。エレミヤはバビロニア幽囚の時期にバビロンにいて「ユダヤの地に帰らない方が良い」と予言したのではなかったか。彼は自分の考え通りユダヤには戻らなかったのでしょう。

 旧約の時代“悪魔”サタンがバビロニアにいる間はまだ良かった。イエスの仲間たちがユダヤ教の指導層を「蝮のすえ」と呼び「お前たちこそ悪魔の手下だ」と言った時、例えそれが正しい指摘であっても旧約の神の怒りは如何ばかりだったか想像に難くありません。新しい宗教の布教以来「人の子」は目の敵にされユダヤに留まる限り最早彼らの死後の望みは完全に断たれたと考えられます。悪魔や動物に憐憫の情などあり得ません。人間界にその悲劇の様を知る者はいませんが霊界では多数の証人がまだ生々しく記憶しているでしょう。キリスト教徒にとってどうして今日のエルサレムが恵みの場所であり得るでしょうか。

 短い原始キリスト教の時代には新しい信仰がユダヤ教と完全に分離し切っていない状態にあり混沌としていたと思われますが、当時のエルサレムには新しい力が根付き始めていた。しかしそこも対ローマ戦争で決定的な敗北を喫しユダヤはディアスポラ化して救済の場所ではなくなり、キリスト教の舞台はローマに移りました。パウロ教としてローマに移植されたキリスト教は一体どんな宗教だったでしょうか。パウロによればイエスさえ彼らの神に捧げられた贖罪の羊だった。イエスが新宗教で意図した「サタンが死者を篩
(ふるい)にかける」はずの構図は全く否定された。そして死者を篩にかける役目はローマの悪魔が引き受けた。何故ならサタンは旧約で“悪魔”であったから。サタンは「我々は人間の味方だ」と異議を唱えて争ったが強力なレギオン軍勢を相手に一敗地に塗れ、「一体いつになったら人間の魂は救われるのだろう」と悲嘆に暮れたのです。その戦いでサタンの勢力は大幅に削減され、イザヤ書14章の「黎明の子、明けの明星」が「忌みきらわれる月足らぬ子のように墓のそとに捨てられ、つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る」という預言は成就したのです。かくてユダヤの神とカトリックの結託が成立しパロディーのような騙しのシステムが出来上りました。

 ザビエルによって齎されたのはこのキリスト教でした。霊界では常識らしいのですが、セカンドハンドの宗教は変質し似て非なる危険この上ない代物になることを人間は自覚していない。この国に生まれた魂の悲惨さは目を覆うばかりです。今更2500年前の仏典を講釈しても何の価値ないことに目覚めて下さい。釈迦は豚族だった、だから豚族がその遺産を受け継ぎ今この国の仏教徒を篩にかけています。中国から貪欲な豚の皇子が来たことは既に書きました。仏教徒として降りて来た「人の子」の仲間は豚族や鰐族の好餌となるか汚れ仕事を命じられて従う外はなかった。豚の支配をサポートしている獰猛な犬たちもいました。霊界で犬族の墓穴(または廃棄所)を掘り返した所夥しい「人の子」の骨(顔の骨格で分かる)が出て来たそうです。哲学者も犬と一緒に食べていたらしい。Misanthropicな動物たちは偽の宗教でワールドワイドに結託していて、この国でも役員会がブロックごとに開かれて得手勝手な裁きが行われていました。神道と所縁のあるユダヤ神も来ていたし、最大級の権威を与えられたニワトリもそのメンバーだった。ヤマトだけで彼らには十分すぎる程十分な利益が上がっていたのです。一体何時になったらこんな迷妄の慣習に幕引きが訪れるのでしょうか。
「人類絶滅計画」と呼ばれる邪悪なスローガンがあり、インドからも賛同を得ていたそうです。彼らは「人の子」が著しく目減りしたことは承知の上で「残っている限り食おう」とやり方を変える気はなく、遂に「人の子」が一人もいなくなったある海なし県では目標達成の万歳三唱をしたそうです。基本的に彼らの考え方は人間とは全然違うのです。何処も死んでも死に切れない世界だったのです。

 「人間の一生は帰らざる河を下る愚か者の船の乗客の如し」という想念が私を捉え脱力させます。こういう心境になったのは現在住んでいるこの街に関係があるのは分かっています。人間が食物連鎖の頂点にいるのはこの世だけの話でまだ命には続きがあります。愉快に飲んで食べて踊って繁殖して一生を過したその挙句人間は悪魔の獲物になるのです。メメント・モリ。この能天気な船を降りて助かる道を探す発想の転換が必要です。
むしろ地上に先住し現世と霊界の違いに通暁している動物の方が摂理をよく分かっているのかと思わせることがありました。近くのドラッグストアに行く途中に中形犬ゴンとモモの犬舎があります。買い物の途中立ち寄り「頭がいいんだってね。次回は人間か」と話しかけた所、その夜「チャーリー・ゴンと話したそうだね。ゴンは決して人間にはならないと言っている」と返事を聞かされました。人間以外の物言わぬ動物たちには前世の記憶が残っていて、人間になればどうなるか分かっているのかも知れません。犬はこの世をドッグフードと犬小屋で過ごし犬族の仲間に合流するが、贅沢な食事と快適な生活環境でぬくぬくと過ごした人間は最高の肉とバンパイアが生き延びるための生き血を提供させられます。それが「人の子」であればタネも最高です。ユダヤでは人間の命運がどんなに情け容赦なくむごいものかを知っていて諦めた者だけが人間になるそうです。

 動物と人間の間にある生死を賭けたこの緊張関係に気付き信者に警告している教会があるでしょうか。裁きの場で動物の存在は重く人間が第一に問われるのは「お前たちは俺たちの肉を食べた」という事です。我々が食べたものは事細かに記録され彼らに報告されています。何かに追いかけられる夢を見た人は多いでしょう。人間には莫逆の友と呼ばれる霊群がいて、人間が肉を食べると彼らが代償を支払わされますが、死んでから最終的に決算されます。「自分が欲することを他人にもせよ」または「自分がされたくないことは他人にもするな」という黄金律はキリスト教に限らず宗教に共通して存在します。これは平凡な処世道徳の教えではなく「お前たちが食われたくなかったらお前たちも肉を食うな」という意味だと理解する方が宗教の本質を捉えています(それが動物たちの言い分ですが人間は決して安易にそれを受け入れてはならないことを覚悟すべきでしょう)。

 人間は動物を過小評価し、動物が宗教を支配して人間を待ち伏せしているとは夢にも思わなかった。人間は素朴に宗教の掲げる看板を信じて気楽にやって来たが案に相違してこっぴどい目に会わされ、やっと宗教の悪だくみに気付いて後悔しても時既に遅かった。宗教はお前たちの事を何もかも知っていると豪語し、人間が浮かばれないのはすべて人間自身のせいにされ、上位の神には「何も問題なくうまく行っている」と報告されていた。これがこれまで隠されていた偽らざる冥界の実情です。動物たちが人間をターゲットにすれば動物同志の争いは緩和されます。

 今や人間こそ絶滅危惧種と言われていました。こんな状況を何とかしなければならないとするグループがあり、やっとこれまでの人間の長い艱難に対して謝罪し、ハルマゲドンを支持して悪に対抗する新たな力と組織を与えた神がいます。歴史上かつて何度かこうした企てはあったがうまく行った例はなかったでしょう。今回のハルマゲドンでは霊界の構造的変化を構想して二分法と呼ばれる棲み分け理論が具体化されています。そのために霊界の天地は身を捩るような変動を既に始めていますし、地上にも何らかの振動が及ぶでしょう。これまでの仕組みで多大の利益を得ている守旧派の壁は厚く一朝一夕にめざましい成果が表れるとは思えませんが、成否は人々の信仰にパラダイムシフトが起きるかどうかにかかっていると思われます。

 人間の一生は地上での個人的栄達や金銭的な成功よりは先ず無事に帰還することが出来てどれだけ人心の蒙を啓くことに貢献したかが神にとって重要です。私はこれまで弱者とされる女性の方にシンパシーを感じていましたが、世評に名高いある男性にコンタクトするようにと言われ責任を感じています。彼はビジネスやテクノロジー関係の著作を著し教育者としてまたオピニオンリーダーとして広範囲に活躍している人物ですが、宗教的分野には目立った関心を示してはいないようです。神は彼に人間となって宗教の長い閉塞状況を打破することを嘱望していたのですが、いまの所その期待は裏切られ、このまま偽りの宗教の危険性に覚醒することなく悪の手中に落ちれば貴重な人的資源が失われると危惧されています。私との個人的繋がりは一切ないし今まで著作も手に取ったことはなく一介の傍観者に過ぎない私が、何をもって彼に目下の関心とは全く違う宗教分野への問題意識を喚起させることが出来るのか、正直に言って不安が先立ちます。天上では高い地位にいた人で言葉に気を付けるよう言われています。

 先に触れたように昨年の五月から住み始めた北側の歴史的な中都市でこの所無力感に苛まれて過ごしました。日本各地にこうした場所があることは知っていましたが、一見清潔でおしなべて女性も優しく感じるこの街はこれまで住んだことのある中で霊的には何処よりも劣悪で、典型的な刑場であり廃棄所であることが分かったのです。「馬には乗ってみよ、人には添ってみよ」に加えて「町には住んでみよ」と言う所でしょうか。しかし住民は何も知らず聊かの不安もなく平凡に暮らしていることに強烈な焦燥を感じます。ここはアケロンテだ、こんな所は出て行った方が良いと叫んでも誰が耳を傾けてくれるでしょうか。
今まで移り住んだ街にはインベントリーと呼ばれる協力的な仲間が必ずいたのですがここはインベントリーゼロ地帯でした。例えば高崎線沿線のK駅の街にいた頃昼食にシーフードヌードルとおにぎりを食べることがありましたが「シーフードヌードルは止めろ」と私に警告した者がいて、彼もおそらくインベントリーの一人でした。私は「シーフードなら問題ないだろう」と反問したのですがカップに印刷されている原材料をよく見ると豚油を使用していました(実はこの少年も敵の回し者であったと後で気付きました)。
この街には汚水処理場のような施設があり天から降りて来た子供たちが働かされています。夢でなければ鼻を塞ぎたくなるような場所で、年長の少年が「こんな
shitholeで働かされている。来る時に持ってきた数式のプリントは印刷物禁止で没収された。朋輩は豚に食われた」と訴えました。何の計算か横線が五本あり見たこともない記号が並んだ六段階の分数の超高度数式を夢で見たことがありますがその事でしょうか。みじめな暮らしをしている乞食族もいて彼らも下りて来たグループの仲間でした。

 何より強烈なショックはネフィリムとの遭遇でした。夢のシーンで私は堤防のような小高い土手のこちら側にいて、むこう側に巨大な怪人の上半身が現れ土手越しに伸ばした彼の右手がすぐ近くまで迫って来た時、私は自分が彼の指につままれた一切れのパンよりも小さいと感じました。驚いて現実に戻って目が覚め、当然ながら評判の漫画「進撃の巨人」を思い出しました(ただし実際に読んではいません)。漫画はフィクションでしょうがネフィリム自体は世界各地に伝説・神話が残っているし、話だけでなく様々なサイズの遺骨が実際に発掘されています。彼らはこの世では死滅し人間の記憶には全くないが霊的には今尚生き残っているという訳です。漫画に描かれた巨人は理科室の筋肉標本のような身体ですがそうではなく普通の人間に近い姿形をしていて、こちらを見下している顔は喜怒哀楽のないような無表情でした。しかし巨体に相応しい頭蓋骨がありその巨大なキャパシティーに内蔵された脳があるなら並外れた知力を持っている訳でしょう。以前から宗教は一体誰が考えたのだろうかとの疑問がありましたが、宗教に仕掛けられた我々を悩ませる複雑なトリックや独特の発想には遺憾なく彼らの知恵が働いているに違いありません。動物たちも彼らの部下なのでしょう。「人間は我々の米だ、米は食われても文句は言わない」と言っているそうです。これまでは人間中心主義の逆だったのです。
こうなると何をやっても無駄だ、到底勝ち目はないと思ってしまいますが、ポセイドンや華厳経の大仏やアブシンベル神殿の神像のように、彼らに対立し我々に味方する神々の中に巨人族もいるようです。また必ずしも全部が悪意あるネフィリムではないようですし、この街のネフィリムも私に視認されて北の方へ移動したようです。
この町でネフィリムの夢を見たショックを拭い去ることは出来ませんが、我々としては宗教の旧い殻に閉塞しないで、人間が何を求められているかを日々新たに問いかけ、道を開拓し、それを試みる外ありません。

 この項目の冒頭に手塚漫画を、最後に「進撃の巨人」を引用したことに私らしい作意が透けて見える文章かもしれませんが作り話ではありません。漫画は馬鹿に出来ないということを言いたいのです。人間の創造力が生み出す想念は霊界で実体化すること、それが出来る力は人間だけにあって動物にはないことに気付いた者は少ないでしょう。天才手塚治虫氏も自分が描いた主人公に助けられた筈です。逆に小説家の場合は邪悪な敵が出て来るような小説を書くことは危険なのだそうです。

 人間と暮らしたことのある犬は霊界でも人間の親しい友達だということ、犬がすべて悪者ではないことを書き添えます。また食肉を断ちさえすれば良いのかの問の答はザトペックの悲劇が物語っています。