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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

サラセン

 家では父と母が東京弁で会話し外では学校や友達とは九州弁を話していた私は、大学の4年間を大阪で過ごし身近に大阪弁に接しました。大阪弁が特別耳新しかった訳ではなく、例えば花菱アチャコと浪花千恵子のラジオドラマなどで前から聞き馴染んでいました。しかし「勝手にさらせ」や「いいかげんにさらせ」は大阪で初めて聞いた言葉でした。この言葉には手が付けられない無法に対する傍観者の諦めの気持ちが混じっている気がします。最近この言葉を思い出し、「さらせ」とはサラセンのことではないかと思い浮かぶと共に、9・11同時多発テロやISやタリバン等イスラム教徒の滅茶苦茶な暴力志向を思い合わせていました。「アラーの神はいるのかいないのか、その正体はよくわからない。彼らは何に祈っているのか」等と、下手なことを書けば私も欠席裁判で有罪宣告され、殺し屋に死刑執行されるかも知れません。「さらせ」だけではアラブも日本に来ていた証拠としては弱いと思っていた所、8月13日の早朝NHKワールドニュースで、祈る人のことをアラビヤ語でナマズという事を知り、川魚のナマズと1日に5回祈るイスラム教徒とはヒゲという共通点があることから、ナマズの出所はアラビア語でアラビア人も新語作成のグループにいた証拠になりそうだと少し自信を得ました。かつて彼らが得意げに和気あいあいと談笑しつつ悪だくみしていた姿が目に浮かぶようです。
 最近食に関するタブーは宗教の邪悪な企みであると割り切り、肉でも何でも食べてすっかり解放感を味わった私は、ハラルや割礼や偶像崇拝禁止でユダヤ教徒を模倣しラマダンで食事時間を縛るイスラム教も重々警戒を要する危険な宗教だと見做すよう考えを変えました。イエスの教えはアルファにしてオメガであり、後に生まれたイスラムも救いの教えではなかった。マルコ7章18~23の “イエスは言われた、「あなたがたもそんなに鈍いのか。すべて外から人の中に入って来るものは人を汚し得ないことがわからないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入りそして外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でも清いものとされた。さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」 ” は、ユダヤ人が習慣として厳しく遵守するコシェルに対する批判であるのは明らかでしょう。さらに全き者が食べた食べ物は原罪が拭われそこから清浄な霊が生まれます。後半部分に悪い思いから口を経て出て来るものとして「嘘」もはっきり書き加えられるべきですが何故か見当たりません。
 「殺す」または「殺される」という言葉はコロサイ人から来たと思われ、この言葉が生まれたのはパウロの「コロサイ人への手紙」2章8に「あなたがたはむなしいだましごとの哲学(旧約聖書のこと)で人のとりこにされないように気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間(ユダヤ教徒のこと)の言伝えに基くものにすぎません」とあるように、コロサイ人は旧約が嘘で固められた作りものであることを知っていた。それでコロサイ人はユダヤ人に「奴らを殺したい」と思う程憎まれていたのでした。
 結局「悪」には世界的な連帯組織があり、ヤマトにはユダヤ、インド、イギリス、アラブなどの悪霊が世界中から寄り集まり、我がもの顔で歴史の書き換えや人殺しなど勝手放題なことをしていたし、時にはローマからも来訪者があり、蛇頭や朝鮮の悪霊も出入りしていた。イザヤはディアスポラ以前から来ていたのでしょう。彼らは支配者づらして勝手な命令を下します。実行するのを逡巡していると「殺せと言っただろう」とわめき散らして強要する。止むなく言われた通りにした者はその後で涙を流して泣いていたのです。モラルは荒れ放題でした。
 東京の権田原のようなそれぞれの根城は日本各地にあり、彼らはそれを適材適所と自慢しているようですが、私としては何処に何者がいるか地名を表沙汰にした方がいいのやら、しない方がいいのやら。彼らの人間ビジネスは膨大な利益を上げていました。なぜヤマトがそれ程彼らを惹きつけたのか、この国の古代史には隠された謎がありそうです。これが八百万の神の実態(*註)でしたが、何と言っても柱はユダヤ教と癒着した天皇でしょう。今上天皇に何の関係があるかと思われるでしょうが「67項・爆弾発言(2)」の記事は何人かのかつて天皇だったと思しき者が現れて私に書いてくれと頼まれたことなのです。

 人間は誰かがはっきり書かないと理解出来ないと言われています。前項で「ユダヤ人はイエスとその父なる神を排斥することでユダヤ人だけが持っていた死後の命と天への招きという特権を反故にした」と書いたことにより、問題点が分かった方が多いのではないでしょうか。アタリが言うように神々とはカニバリズムの勝利者だったがイエスの父なる神だけは違っていた。原点に帰って次の基本を確認すべきでしょう。
・善なる神エロイム    ~ イエスの父なる神(フェリックス?)~ 地上の代理人イエス  ~ 新約聖書
          V.S.
・悪なる神エッサイム ~ 万軍の主または全能神(バアル?)   ~ 地上の代理人YHWH  旧約聖書

 旧約聖書にはエロイムとその信奉者の物語は(列王記の一部を除いて?)出て来ません。キリスト教思想史1
(フスト・ゴンザレス)の巻頭でイエール大名誉教授によって「ユダヤ人はヤハウエ以外の神は決して拝まなかったし他の神の存在を否定した」(p-9)と書かれているのは、正しくは「ユダヤ人は旧約聖書にヤハウエとその信奉者のことだけしか書き残さなかったし他の神に関する記録は抹殺した」と書くべきでしょう。彼らの中に全能神以外を信奉した者もいた痕跡はマラキ書にあります。同書にイグナティウスの言葉「イエスキリストは真にダビデの子孫であり(これは誤り)本当に生まれ、実際に十字架に釘付けされ、本当に死者の中からよみがえられた。これらすべての苦難を彼は私たちが救われるよう、私たちのために受けられたのです。そして彼は真実に受難したのです。・・・ある不信心者どもが彼の受難はみせかけだと言うのとは違います。みせかけで存在するのは彼らの方なのです。そして彼らの思いにふさわしいことが彼らに起こるでしょう・・・からだを持たないお化けのような輩に(P85~86)」を引用しています。人間は死後自分の真の姿を知ることになります。このことは逆にお化けのような輩や動物がこの世でみせかけの人間になることをも意味します。ヤハウエもこうしたみせかけの人間になった時、全能神の後ろ盾により楽園の主になってアダムとイブを放し飼いしていた。しかし二人はサタンの説得によって楽園を脱出しユダヤ人の始祖になった。もし二人が脱出しないでヤハウエの生贄になっていれば、アダムとイブから生まれたユダヤ人の子孫は存在しなかったのです。サタンの導きは二人が真人だったからで、数的な比率から見て真人同士のマッチングの可能性は極めて低く、伝統的なユダヤ人のエリート意識は真人同志のカップルから生まれた子孫だったからだと考えられます。他方、寿命が尽きて死後霊となったヤハウエは長い時を経てシナイ山でモーセに語りかけて再びユダヤの神となります。
 33項に取り上げたマルキオンについて、フストは「彼は余りに極端にパウロの福音と教会の教えとを対比したために異なる神を主張し、旧約聖書を否定し、二元論を唱えることによって明らかにパウロの福音にも反してしまった(P166~167)」と書いていますが、パウロも旧約聖書の内容を否定しているし、二元論という言葉そのものは使っていないが「66項・爆弾発言1」に紹介したようにローマ書8章で「被造物を虚無に服させる方」と「呪縛から解放し神の子たちの栄光の自由に入れる方」の両者の存在を唱えています。マルキオンはパウロの福音に反していません。
 またフストは審判とは誰がやっても同じものと考えているふしがありますがとんでもなく甘い考えで、誰がやるかで生死が分かれるのです。「人生は一回切り」という凡庸な視点からも抜け出ていません。更に口伝について、ただ「口伝があった」としか書いてない。自分たちに不利なことは平気で捏造するという、文章化の効果を最もよく知っていたユダヤ人が、何故口伝を文章化しなかったのか深く考察しようとしない。流石に文章に書けない内容だったからです。「キリスト教は一神教である」という命題の捉え方もポイントを外しています。歴史的現実の持つ凹凸や裏表や背後関係を察知する読解力がなく言葉だけの表面的な知識。イエール神学のレベルはこんなものかと思うと失望を禁じ得ません。JFKを含むアーリントンの英霊が「我々は騙されていた」と怒る通りのキリスト教観です。ヨハネ福音書の「声は人となった」をどう解釈するのでしょうか。イエスは受肉するに先立って地上の霊界に降りて来てエッサイムを難詰して論破した事実があった。ユダヤ人は霊の声を聞くことが出来たからその事情を知っていた。だから人となったイエスは「彼らは言い逃れ出来ない」と言えたのです。然し祭司たちはこの出来事を旧約聖書に一切追加記録しなかった。マラキ書が書かれたあとの旧約と新約の間の出来事でした。
 神学論のまとめとして第一の類型(エイレナイオス)第二の類型(ティルトリアヌスとクレメンス)第三の類型(オリゲネス)に分類していますが(P267)難解な彼らの議論は不毛で、これらは逸脱(deviation)と呼ばれ神々に嫌われています。アタナシウスの「人間が必要とする救いは人間が神とされる事である」(P347)とはパウロが言うように被造物が神の似姿を再び獲得することで、さすがに正鵠を射た議論をしていますが、彼が旧約聖書の原罪を鵜呑みにして、誰彼なくひとしなみに「人間は罪を犯し神の像を放棄した」と決めつけるのは早計で、神の像を保っている者(人の子)もおり先ずその無事な帰還がイエスの緊急な望みなのでした。逆にその帰還を絶対に阻止しようと狙っていたのが悪魔です。アタナシウスも信条の支持者でした。
 この本を読もうと思ったのは信条を作成する過程でどんな真剣な議論があったのか知りたかったのですが、誰も言葉の矛盾を全く意に介していないで揉めごとなどなかったかのようです。イザヤ書にあるように Lord
Almightyとはエッサイムのトップを表す予約語で、審判に当たって死者が全能神の扉を開けてその部屋に入ればもう終わりなのです。ニケーヤ公会議開催の後ろ盾だったコンスタンチヌス自身が信条を素朴に信じて罠に嵌った可能性が高いのではないでしょうか。
 グレゴリウスが父なる神を絶対超越者と規定する(P369)のは過大な表現で、ではイエスに油注いだ(またはその称号を与えた)のも父なる神だったのかとの反問を遁れられないでしょう。もし父が子に栄誉を与えたのであればそれは身内のなれ合いで、ネポティズムは他人にとって信用も権威もありません。更に上位の神々の存在を考えなければなりません。この外エビオン派(P146)やロゴスについての興味深い説が紹介されていますがまた別の機会に触れることになるでしょう。

 先日亡くなった、歌手でもあり女優でもあったドリス・デイが救われたという知らせは喜びでした。また野際陽子さんも救われ、それは私が彼女に好感を持っていたからだと言われて驚きました。本当かどうか分かりません。時々目にする彼女はいつも変わらなかったし、好感を持ったのは大分昔離婚発表の時、彼女が別れる相手にも十分配慮して言葉を選びつつ自然に事情説明するのを見た時でした。まさかとは思うが、私の場合誰彼なく好きだとか嫌いだとか性急に決めるのは要注意なのかと受け止めています。ルックスも声も頭も良く好きだと思っていた女性のとんでもない写真をネット上で発見して愕然としたこともあります。
フストはグノーシスについて、説明はするが余り真剣に受け止めてはいない気がします。彼自身がその意味をいずれは理解する時が来ますが、例えばハリウッドのアクターに男前や好漢は多数いるが、人の子はエロール・フリンとエフレム・ジンバリスト・Jrくらいだそうです。


(*註)
この中にブードー教も含まれています。誰が引き入れたかはお分かりでしょう。

(追記)
Hindsightによれば残念ながらアタナシウスもF.Z.Jrも救済に与れなかった。正確な用語の重要性ついて再認識するべきです。