IMITATIO-XP.COM

これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

闇の奥(続)

告白とは何とつらいことか。自分では分っていることだから、このような文章を綴るのが他人の目にさらすのを目的意識した作業であることは間違いない。

他の宗教ではあまり見かけないことだが、仏教が一家の先祖累代の墓を建てさせるのは将来にわたって子孫を拘束し信者を確保する巧妙な策である。面識のない他人に、顔も本名も明かさないで読んでもらうだけなら構わないだろうが、私としては何らの疑いも挟まず家宗を墨守する親戚・友人・知人に何より事の本質を伝えたい。勿論我が伴侶にも。しかしイエーツの詩のような書き方をしても、何を伝えたいのか誰も分ってはくれないだろうし、イエスは人々に譬えで話したという聖書にも、我々には理解不能の個所がいっぱいある。出来るだけ具体的に例を示さなければ何の役に立つだろう。たとえ自虐ネタであっても逡巡してはいられない。今まではなるべく固有名詞を出さないようにしてきたが、少し考えを変えようと思う。

ある夢で、パソコンのスクリーンに私が過去に交わった女性の一覧が表示されているのを見た。
「お前は三つのことを書いただけで他にはなかったようなふりをした」と意地悪く突っ込まれるに違いないので、あれだけではなかったことも告白しよう。言い訳するなら、自分で誘った行為は皆無であり、誘いに乗った有償・無償の行為であったとはいえるだろう。
もう70を過ぎたのだ。腹を括るしかない。

最近はほとんど見なくなったが、一人暮らしを始める前、毎晩嫌になるほど見たのは、足の踏み場もないような、汚れてあふれたトイレの夢だった。家屋も余りにもひどいぼろ家で建具も傷んでいるものが多かった。社会のインフラが出来ていない世界。そして男性の大人のいる気配がない。大人がいないからインフラが出来ないのかも知れない。また東京神田界隈を歩いている暗示で見た夢は、なるほど立派な作りの寺があるが、全体的にうす暗く、通りに人影がなくがらんとしていて、樹木の下に立ってこちらを見ている二人の女性が生気なく笑っている。部分的かも知れないがこれらが関東の仏教の煉獄の有様だと考えるのは私の偏見だろうか。

気が付くと私はガラス張りの巨大なオフィスビルの中の一角で、広い机を前にして座っていた。きちんとネクタイとスーツで決めた明らかに外国人の男性が同じ机の左側にやや離れて座って新聞を読んでいた。別の新聞が私の右手近くに何紙か置いてあった。彼は手元の新聞を読み終えて私の顔を見、置いてあった新聞に視線を移してまた私を見た。無言の指示だった。私は彼の視線が示した新聞を取って手渡したが、カッと怒りにかられた。そして「俺はお前に顎で使われるいわれはないぞ」と言った。自分でも不思議な、ひび割れた荒々しい声だった。彼は私をちらっと見たが全く動揺する気配もなく、再び新聞に視線を戻して読み続けた。
映画コンスタンチンに出て来た男のような風貌の彼は悪魔の一人である。日本の地獄は真新しい建築物で超近代化されているそうである。
この夢で、私は誰かに連れて来られたのだろうが、心理学者によれば脳にはそれが自分自身のことであると思わせる分野があり、私はそこを刺激されていたのだろう。

N市へ来てすぐの夜、見掛けたことのない、人相から明らかに悪魔の仲間と思われる男が私を品定めに来、「なんにも(最近は)悪い事をしていない男だ」と面白くもおかしくもない風な調子で言った。

改宗してから四年位経った頃、家の中で女二人と男が話している気配。男が何か言ったことに対し、女が「貴方は悪魔か?」と驚いて聞き返した。そうは見えなかったのに違いない。男は黙っているがそれは肯定の沈黙である。様子を覗っていた私が「神の子か」と呟くと「昔はそう言われた」と返事があった。
人間も昔よりははるかに進歩しそれにつれて冥界も変わっただろうと思う。それなのに悪魔は相も変わらない食習慣で、悪を発信し続けそのシンボルとして一方の極に位置している。「遺伝子コードが解読される時代に・・・」と彼も自嘲した。仏教に使役されている気の毒な少年少女に対し「みんないい子だ」と同情を示した。しかし「甲子園でキャッチボールしながら待ってるからな」というセリフを残して、間もなくいなくなった。私にはその意味が分らず、将来自分は甲子園の近辺で死ぬのだろうかと考えた。後で思い付いたのは、マンガの野球一直線に「俺が死んだら三途の河原で鬼を集めて野球するダンチョネ」という替え歌があり、それをシャレて三途の河原でまた逢おうと別れの挨拶を言ったのだと理解した。私の周囲もゆっくりとメンバーが交代しているようである。

前項で私の不品行の代償として家の子が次々と連れて行かれたことを書いた。聖書の「あなたたちはもう裁かれている」はこのことも含むのかも知れない。ところが、ここN市K地区でも昔そのような達し(人間が間違いを犯す度に代償を求める)があったが、実施はされなかったという。
この、地方色のある宗教のやり方の違いが実に物事を複雑にしている。キリスト教が尊重されているか、逆にないがしろにされているかも、地域によって色々と異なるようである。クリスチャンが死ぬとその地方のキリスト教グル―プが寺社庁(寺社奉行)から独立していれば独自の審判を、統率されていれば仏教中心の他の宗教に対するのと何ら変わらない審判を受ける仕組みになっていて、独自の立場を勝ち取るにはそれだけの力と他の宗教の了解がなければならなかった。ただしマルチリ(殉教)の犠牲者が確実に救済される(オリゲネスも殉教を奨励している)ことは全国共通の例外だそうである。山上の垂訓は「心貧しい者」と「義のために迫害される人々」が天の国を自分のものとすると述べている。

キリスト教がユダヤ教から派生して長い苦難の時期を経てローマの国教になりラテンの国々で優勢になったとしても、同じ状況が同時に日本および世界各国で起きた訳ではないし、苦しい布教の役目を働くべき日本人のイエスと使徒がいた訳ではない。20世紀にロシアや中国で共産主義革命が成功したからといって、日本の共産主義者も国の主導権を握った訳ではないのと同じである。

日本には長い禁教の時代があってキリスト教の浸透度は浅いし、大戦直前も宗教は国策に組み込まれた。歴史上のイエスの勝利を司教・司祭が足元を忘れて過大に褒めそやし、信者が自分のことではない成功体験に安易に依存することを、霊的なバチカンも警告しているそうである。むしろ逆に、世界的なキリスト教の拡大は非キリスト教国とされるこの国を魔の手がターゲットにする一因となった可能性がある。

悪魔の文化史(文庫クセジュ)によれば、神父アコスタ(16Cスペインのイエズス会宣教師)も「悪魔はキリスト教の到来とともにインドに逃避しそこでさまざまな虚偽をまき散らした」と言ったそうである。
対立物の統合はまだまだ先のことであり、当面は地域または国単位で良きみ柱のみを祀り、民衆はことの重要さに気付き死後に導かれる信教を改めて、悪魔と配下のデーモンにお引き取り願うしかない。

世界的な悪の本部はなる程コチートを連想する寒地にありウインタースポーツの盛んな都市である。最近作られた映画を見てここにはこんな強烈な悪のポテンシャルが潜在していたのかと心胆を冷やされた。

日本国内の地域性の違いを具体的に書くことは大変難しい。ある地方に本社のある古来のカミはまだ病人の肉体に息があるうちに魂を取って食ってしまうという。そのカミの名前はとても公言出来ない。あちら側では仏教の実体は知れ渡っているが多くは見て見ぬふりをしている状況で、N市の近隣S市のむかしの藩主は「仏国土を火の海にしたい」という言葉で仏教への反感を表現し、ほかにもそれに同調する藩主がいるらしいことを聞いて驚く。見えない世界に対する打開をこの世で性急に実行しようとしたのがオームではないだろうか。ただしオームの教祖はシヴァ神の生まれ変わりを自認しているそうで仏教を敵視していた訳ではあるまい。片やある西の地域の総意は従来のうま味を失いたくないので現支配体制による現状維持を望むそうである。

1980年代まだオームが公の活動を認められていた頃、教祖のお面をかぶった複数の霊が出て来る、ぐっしょりと寝汗をかくような悪夢を見てうなされたことがある。
当時A新聞はスプーン曲げをインチキであるとするキャンペーンを張っており、連続写真でそのトリックを分析する記事を載せる程熱を入れていた。そのA新聞にオームの記事が出ているのを読むと、どうせ海のものとも山のものともつかない新興宗教に対する反オカルトの論調かと思いきや意外に好評価していた。興味をひかれて本屋にオームの機関紙を見に行くと、教主の顔が余りに予想と違っていて違和感を覚え、全く幻滅して帰った。 夢でさいなまれたのはその後であった。

JBラッセルの「ルシファー 中世の悪魔」という本の裏表紙に2匹の大きな魚のようなものが左右から大口をあ
け、その口で囲まれた円形にたくさんの人間がいて、外枠に一人の天使が立っている、相当書いた時代が古いと思われる絵がある。多くはこれを見て何かの単なる風刺画としか思わないだろうが、これは人間が遁れようもなく悪魔の餌食になることを図示している。一体何に基づいて画家がこのような画を描いたのか知らないが、私はこの画の持つリアリティーに身震いする。

どのようなシステムがあって我々はこのほとんど片道切符のような旅に出たのだろうか。難解なトマス福音書29章で、“イエスは言った、「肉が霊の故に生じたのなら、それは奇跡である(肉が霊から生じることはありえない)、しかし、霊が身体の故に生じたなら、それは奇跡の奇跡である(霊が身体から生じることは更にありえない)。しかし私は、いかにしてこの大いなる富(即ち霊)がこの貧困の中(身体)に住まったかを不思議に思う」”とあるように、彼もその理由を知らないのだろうか。ここでイエスは、人間は罪によって下界に落とされたとする旧約の通説を鵜呑みにしてはいない。イエス自身は自分が来た目的は人間救済のルートを開くためであることを勿論承知していた。

結局の所我々は多少の選択の余地はあるにせよ「ノー」とは言えない強制力の下にあるのだろう。

「悪の文化史」の作者ジョルジュ・ミノアは「善と悪を単に倫理的なカテゴリーととらえ、悪魔の役割は説明原理として優れた存在であるとし、宗教が善を勧めてもこの世は悪に満ちているなら神の力は弱く得られるものは乏しいが、サタンへの信仰は我々を束縛から解放し手に入るものが多く、その方が豊かな恵みがあると考えるのは尤もである」とする立場と見て凡そ間違いないだろうか。しかしそれでは
“Lead us not into temptations, but deliver us from the evil ones.” が結果的に
”Led into temptations and offered to the evil ones.”になってしまう。何のために悪が人を欺き甘い罠へとそそのかすかを考慮していない。悪は誘惑し誘惑された者を罰する。魚釣りと同じである。サタンの味方をしたからといってサタンが褒めて助けてくれたりはしない。ここはサタンのホームグラウンドであって神の力は制限されている。人間の中に難点を見出しそれに目くじらを立てて言いがかりを付け、欲望の弱点を突いて減点し合格させないのは神ではなく悪魔である。あらゆる生き物の中で、人間ほどよい飼料で育ったものはいない。魔族はライオンや狼と同じ肉食である。私はデーモンの少年の悲痛な告白を聞いた。「友達がみんな餅菓子を喜んで食べていたので一口食べたところ、身体が拒否反応してひどい苦しみに襲われた」と。(*註1参照)

この本にルターは極度に悪魔に敏感でその作用を怖れまた強く反撥したことが書かれている。彼はユダヤ人やトルコ人を悪魔と呼んでして敵視した。私自身はユダヤ教徒にもイスラム教徒にもなったことがないので何とも言えないが、個人的な体験を言うと、トルコとイスラエルを旅行した時食あたりでひどい体調不良に陥って苦い経験をした。その真偽の程はともかく、彼らをキリスト教の敵と見てそう表現したのはまだ許容の範囲内だろう。

かつてヨハネやパウロやイエスが敵対する相手を悪魔と呼んだ時、それは永遠の命への道を阻む打倒すべき存在に対してであってその用語法には本来の素朴な真実が宿っていた。しかし同根である筈の新教と旧教がお互いに相手に悪魔というレッテルを貼って対立し糾弾しあってから、キリスト教は抜き差しならない陥穽に落ちたように思う。これではイエスの「わたしは道であり真理であり命である」が成り立たない。相手を悪魔と呼んで妥協の余地なく場外に叩き落とそうとはしないで、一方が「伝統と統一を無視する分裂主義的異端者」と非難し、他方が「これまでのキリスト教を振り返ってその正否を正しく評価することなく、人類の進歩に信頼を置かない発展の阻害者」と反撥する、ルールに従ってリンク内で打ち合うボクシングのようなバトルでなければならなかったと思う。

近代にレオ十三世の「フマーヌム・ゲスス」なる回勅がバプチスト派、仏教徒、フリーメーソンそして救世軍を難詰して「悪魔に付き従うサタン王国の集団」と呼んだ時、仏教徒を含めるのは我が意を得たりであるにせよ、何故バプチストが他と同列に扱われねばならなかったか理解し難い。これでは対立の傷は深まりこそすれ癒されることはない。レオ十三世は死後両手を広げて迎えられただろうか。(*註2参照)

(*註1)私はこの時点ではサタンを古い概念で考えている。「47・負の遺産」及び「48・対立物の統合」でサタンは善の強い味方であると考えを変えた。結果的にミノア説は間違っていない
(*註2)サタンとは何者であるかを考えると、レオ十三世には混乱がある。仏教徒・フリーメーソンは「誤って悪魔を救い主として信仰する集団」であるが、サタンは悪魔ではない。むしろサタンは「神のしるしのある者」をこれらの宗教から救い出す役をしている。バプチストをレギオンの輩と及ぶ呼ぶ声を聴いたことがある。救世軍についてはよく判らない。